目をさまして祈っていなさい

四月十五日 目をさまして祈っていなさい (二〇一三年 ひとしずく一一二八)

 「最近、主が祈りを叶えて下さるスピードがとても速くなったように思える」と祈りに対する答えの証しを分け合って下さった方がいました。
 周りの世界がますます暗くなっているように思えますが、その分、主の光は、闇の中でますますその輝きを増していると思います。
 「罪の増し加わるところには、めぐみも増加わる」と聖書にある通りです。
 主は、私たちの戦いが大きく熾烈になってきており、私たちが更に大きな力を必要としていることをご存知で、強力な霊の助け手たち、戦士たちを送って下さっているのだと思います。
 私たちは、霊の戦いに従事しています。聖書には「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」とあります(エペソ六章十二節)。

私たちは、力ある者がその悪どい策略を使って抑圧する時、その力に屈してしまう誘惑に駆られます。勝ち目がないと思ってしまうのです。しかし、勝ち目がないと思ってしまうなら、勝つ事はないでしょう。だから敵である悪魔は、「お前一人が、正しいことをしても、また神様が望んでいると思えることをしても、結局何の違いももたらさないよ。弱くて、ちっぽけなお前のしていることは無駄骨をおっているだけさ」と落胆させるような言葉を投げかけても、それを信じるべきではないのです。
 確かに私たちは悪魔の力にはかないません。しかし、その悪魔もイエス様の前には全く歯が立たない存在です。したがって私たちは、自分自身の力で悪魔に対抗するのではなく、イエス様の力によって悪魔に立ち向かい制するのです。

悪魔は自分がいかにイエス様の前では敗北者であるかを私たちに知らせようとはせず、見せかけの強さで私たちを脅し、また私たちがイエス様の助けを呼び求めるのを忘れさせようと必死です。そして、私たちがイエス様に祈り求めた時には、そのイエス様の祈りの答えを遅らせようと戦います。それは、祈っても何の違いももたらさないのだという大嘘を、私たちに思い込ませるためです。
 悪魔も終わりの時が近いのを知って必死です。そして、私たちがひざまずいて真剣にイエス様に祈りを捧げるのを、何よりも嫌い、また怯えているのです。ずるがしこい悪魔は、私たちが霊の内に悪魔に劣る力しか持っていないように欺いて、私たちが霊の武器を手に持って、祈りの戦士となって、悪魔の策略の虜になっている魂の解放のために祈らないように戦っているのです。

私たちは悪魔にではなくイエス様に目を向けていなければなりません。そして勝利を確信している必要があります。イエス様は言われました。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(新改訳マタイ十六章十八節)という言葉があります。 (口語訳聖書では、ハデスの門は黄泉の力と訳されています)

※「ハデス(黄泉)」:(ウィキペディアから)キリスト教の伝統的な理解によると、ハデスとは死後の世界をさしており、使徒言行録二章二五節~三一節でペテロは死とハデスを同義語として用いている。マタイによる福音書十六章十八節では、ハデスは教会の敵であり、サタンの本拠地であり、サタンと同義語に用いられている。

イエス様はこの岩(イエス様御自身)に信者の群れによる教会を築くと言われました。そして、ハデスの門は、それに対抗できないと言われたのです。つまり、私たちイエス様を信じる者たちの信仰による祈りの攻撃に、悪魔の防壁は耐えられない、ということです。信者が教会の門の内側で、悪魔の攻撃を受けて怯えているのではなく、攻撃するのは私たちであり、門の内側で怯えるのは悪魔の方なのです。

私たちは、イエス様を受け入れた時、神の子となる力を授けられました。そしてイエス様のように、神の子として父なる神様に祈ることができ、天の父の力によって悪の業を滅ぼすことができるのです。祈りこそ、私たちの強力な霊の武器です。

 「目をさまして祈っていなさい」とイエス様は言われました。魂を虜にしてしまう悪魔の罠に陥らないためです。
 霊の内に私たちは大掛かりな戦争中であることを忘れず、目をさまして絶えず祈っていましょう。

誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。(マタイ二六章四一節)

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ六章十八節)

  熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。(ローマ十二章十一、十二節)

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し(原語の意味は父と子と聖霊の名に入るバプテスマをし)、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ二八章一八~二〇節)

   そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。(ヤコブ四章七節)

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