四月十三日 より良い賜物 (ひとしずく一一二四)
親子の関係であれ、夫婦の関係であれ、友人関係であれ、一緒の時間があまり無くなってしまったり、一緒にいてもあまり深い会話がなされなくなったりということは、あまり良い兆候とは言えません。そして、同じことが神様と私たちとの間にも言えるのではないかと思います。会話のない神様と私たちとの関係というのは、祈りのない関係と言えるのではないでしょうか。
主は、「わたしに呼び求めよ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ三三章三節)と言っておられます。主は私たちの祈りに答えたいと思っておられ、私たちとの関係を築きたいと思っておられます。主は私たちが主に呼び求める事を待っておられるのです。
しかし悲しいことに私たちは、簡単に祈りのない生活に陥ってしまいます。それはなぜでしょう? 自分の主との関係を評価するために、祈りの生活についての反省は良い指標となると思います。聖書に次のような言葉があります。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ一一章九~一三節)
主は、求めるなら必ず与えられると約束しておられます。しかし、何度も主に祈り求めても、受け取るのは、自分が願ったものとは異なるものであることが時々あります。
癒してほしいとか、供給してほしい、とか事態を改善してほしいと求めているのに、一向に神様が聞いて下さらない、それどころか、事態が悪化しているかのように見える時があるのです。それこそ「パン」や「魚」や「卵」を求めたのに、「石」や「サソリ」や「蛇」が与えられたかのように思える時が。そういった経験によって私たちは、結局祈りは聞かれないのだという結論に行ってしまい、祈りに対する信仰も薄れ、祈らなくなってしまうのかも知れません。
しかし、主は、「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。(そんな意地悪なことはしない)、悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をするではないか」と言っておられるのです。
では、どうして私たちの祈り求めたものが与えられないのでしょう?
「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」という言葉にその答えがあるように思えます。
主は、確かに祈りに答えて下さいます。私自身、自分の信仰生活において、主がどれほど、祈りに答えてきて下さったか、数え上げることができないほど多いです。中には、とても奇跡的なものもあります。主は、祈りに答えられる方だと確信があります。
しかし、必ずしも、私が願った通りの答えではない時も何度もありました。救い出してほしいと必死に祈ったにも拘わらず、同じ状況が長く続いたり、また癒しがなされなかったり、子供の苦しい状況についても、主が祈りに対して目を閉じ、耳を閉じているように思える時があったのです。
しかし、振り返ると、祈りが即座に私の願った通りに叶えられていたら、大切なものを受け取ることを逃すことになっていたのではないかと思います。
それは、聖霊による慰めであり、また聖霊によって示される真理、聖霊による愛の力と進むべき道を示してくれる導きや知恵ではなかったかと思います。
この神様の御霊が私の心を慰めに来られ、神様ご自身が教えられるという特権に与る機会は他の何にも増して得難いものです。もし、私の願った通りに神様が答えられていたら、私はそうした特権を逃していたことでしょう。
ですから、ここで主がお語りになりたかったのは、「祈りが答えられないことがあろうか?私はあなたの嘆願を聞いて、かえって意地悪して答えなかったり、別のものを与えてあなたを苦しめようとしているのではない。あなたの願っているものよりも遥かに良いもの、あなたに必要なものを与えている。それは聖霊だよ」ということではないかと思うのです。
自分の願い通りにならなかったとしても、主には私たちの思いを遥かに超えた素晴らしい御計画があるのであり、必ず主は、私たちが祈り求めた以上の良いもの―聖霊、つまり神の御霊、神様ご自身を与えて下さるのです。