額縁の役割

四月九日 額縁の役割 (二〇一二年四月 ひとしずく七七六)

 ある観光地の売店で、とてもけばけばしい額縁を見たことがあります。サイズは普通なのですが 金色のボールや宝石のような光ものがくっついていて、とても派手なのです。いったいどんな絵や写真がこの額縁に収まるのだろう?と疑問に思ったくらいでした。
 いや、中身は何だってかまわない、つまりは額縁が主役なのです。

 額縁の本来の役割は、中の絵を引き立てるものです。
絵を飾るために額を選ぶ時、それは高価で輝いている必要はありません。いやむしろ、絵を引き立たせるために、地味で、自己主張のないものを大抵選ぶのではないでしょうか?

それは、主が私たちを選ぶのと似ています。
 私たちは、主イエスの光を輝かす存在です。主の愛をこの世に映し出すのが、私たちクリスチャンとしての究極のゴールとも言えると思います。いわゆる額縁の役割です。
 私たちの内に宿るイエス様の御霊は、私たちが肉において弱く、才能においても乏しいくらいの時、かえって輝きます。どうして、これといった取り柄ないように見えるこの人がやっていけるのか、また輝いているのはどうしてかと興味を惹くことでしょう。
 そしてその時、人の注目は私たちの肉、生まれながらの才能や努力、また経験ではなく、神様の恵みの業に向けられるのです。
 だから神様が私たちを地上に送られた使命を果たすのに、あれやこれがないとできないということではないのです。かえって、主は弱く何もない、ありのままの私たちを拾い上げて使われることを好まれるように思えます。

  しかし時々私たちは、主の望まれている額縁として選ばれていることに気づかず、自分はもっともっと主にふさわしく多くの飾りをつけて、立派な見栄えの良い額縁にならないと、主に使ってもらえないとあせっている場合があるのではないでしょうか?
 主の栄光は、病人、弱い人、社会的地位の低い人、子供たち、のけ者にされている人たちを通してよく顕わされました。私たちはこのことを良く覚えている必要があると思います。私たちが完璧にならなければ奇跡は起らないという考えを捨てるなら、もっと主は、私たちを通して輝かれるのではないかと思うのです。
 今日は、イエス様の復活を祝うイースターです。どうか私たちが自分自身に目を向けるのではなく、甦りの主に目を留めていられますように。
 主役はいつもイエス様です。

主が選んでくださったありのままの自分で、精一杯、主の栄光を顕す「額縁」となれますように。 

しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(第二コリント四章五~七節)

  だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。(第二コリント四章十六節)

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