四月八日 獄の中でも共にいて下さる神 (二〇一三年 ひとしずく一一一六)
そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。(創世記三九章二〇、二一節)
人生にはいろいろな困難がありますが、もしも、次のようなことが自分の人生に起こったら、あなたはどうしますか?
兄弟から憎まれ、だまされ、殺されかけ、また奴隷として売られ、挙句の果てには無実 の罪を着せられ、牢獄に閉じこめられる・・・。
実際、こうした体験をした人がいました。それは旧約聖書に登場するヨセフです。聖書にはこうあります。
ヨセフが彼ら(兄たち)に近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、互に言った、「あの夢見る者がやって来る。さあ、彼を殺 して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。
ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。こうして彼らはすわってパンを食べた。時に彼らが目をあげて見ると、 イシマエルびとの隊商が、 らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。」(創世記三七章一八~二七節)
さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。
主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。(創世記三九章一~三節)
(主人ポテパルの好意を得たのもつかの間、ヨセフは、ポテパルの妻のいいなりにならなかったために、妻の偽証によって、濡れ衣を着せられます。)
そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。(創世記三九章二〇、二二節)
他の誰でもない、自分の身内に裏切られ、奴隷として売られ、仕えていた主人に誤解され、無実の罪を着せられて何年間も牢獄に閉じ込められたヨセフの胸の内はどんなであったでしょう?
彼は散々な目に遭いました。何をしても自分の思い通りにいかない人生に絶望し、神をのろったとしても誰が彼を責めることができたでしょうか? しかし、彼はそうはしませんでした。
ヨセフは周りの人たちに対して、いつも誠実で親切であり、また勤勉で礼儀正しくありました。神がヨセフを愛し、いつも共にいて下さっていたことを彼は知っていました。そして、次々に起こる災いの中でも、神様への愛を疑うこともなく、神様が救い出してくれる希望を持ち続けていたのです。
主はヨセフといつも共にいて守り祝福し、さらに、それら全ての試練を使って、愛するヨセフを成長させられました。試練に遭う前には、ヨセフには高ぶりがありました。父親から特別のひいきを受けていたので、自分が何か、兄たちよりも偉い者と思っていたのです。しかし、ヨセフはこの苦しみを通して謙遜になりました。またこれから先どうなるかわからない中で、自分の命を完全に主の御手に委ねることを学んだのです。
さて、その後のヨセフの人生はどうなったかというと、思いもよらぬ大どんでん返しが待っていました。ヨセフは王の見た夢の解き明かしをし、その後七年間の大豊作と、さらにその後七年間の大凶作が起こることを告げ、エジプトをその危機から救うことになったのでした。そしてヨセフは、王から絶大な信頼を得て、何と王に次ぐ位に就いたのでした。
聖書にはこうあります。
そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、 「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。(創世記四一章三八~四三節)
そして後に、兄たちとも和解し、一族をエジプトに呼び寄せたのでした。
神の御計画は何と素晴らしいのでしょう!
次から次へと試練が襲うヨセフの将来に、こんな夢のような神の御計画があるとは誰が知り得たことでしょう?しかし、これは現実であり真実であったのです。
この世の中は益々不法がはびこり、将来に不安を抱かせるような数多くの要因があます。しかし、たとえそんなひどい状況に巻き込まれたとしても、神は保護と恵みを与えて下さいます。そしてそれは神の許されたことであって、神にはすべて良い御計画があるのです。ちょうどヨセフに対して主がなされたように、私たちが行き詰まりと思えるその時期に、主は将来のために私たちを備え、謙遜と従順を学ばせ、奇跡的な扉を開く鍵を授けて下さるのです。
つらい時にも主イエス様はいつも共にいて、恵みを与え続けて下さいます。私たちの人生は、今、あるいは将来、どんなひどい事態に置かれても、勝利する人生へとつながっているのです。だから暗闇の中にある時にも、自由と平安と希望を失うことはありません。
どんな抑圧もどんな牢獄も、どんな不自由さも、どんな痛みも、私たちをキリストの愛から切り離すものは何一つ無いのです。
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、 否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の 愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ八章三一~三九節)