四月一日 主のための場所 (二〇一三年 ひとしずく一二三三)
今、オランダでは、電車の窓ガラスから広告の音声が聞こえてくる装置を設置することが考案されているそうです。
それは、疲れて窓ガラスに寄り掛かり、頭をガラスにくっつけるたりすると、その人にだけ音声が聞こえてくるのというものです。
わずかの時間の隙間にも、情報が押し寄せ、絶えず脳が、刺激され、働かされているというのが、現代人の普通の姿のように思えます。
しかし、確かに知識は増しているものの、本当に自分にとって大切な情報かというと、そうでもない、あるいは全く必要もないというのが本当のところではないかと思います。
あらゆる情報で、頭の中を一杯にしてしまいやすい毎日です。テレビを欠かさず見たり、インターネットに頻繁にアクセスしたりすると、情報過多、 脳みそは飽和状態になってしまいます。
私たちに与えられている時間は限られています。ですから、時間の使い方、そしてどんなもので脳を満たすかの選択、また優先順序をよく考えるべきだと思います。
インターネット、携帯電話、ゲームのしすぎが、集中力や認知能力の低下、脳や精神障害につながっているという調査の結果の記事を最近読みました。
世からの情報過多は、このような問題ばかりではなく、神様とのつながりにおいても障害になり得ると思います。
つまり、この世の情報で頭と心が飽和状態になっているなら、御言葉や、主ご自身からの導きやインプットを受け入れるスペースが無くなってしまうということです。
朝の大切な時間はまず主と共に過ごすとか、一日の始まりの最初のインプットは聖書からとか、生活の面での工夫や努力、そして決意が必要です。
この点において、聖書とイエス様は色々なことを語っています。どうか自分が、最近、主や主の御言葉以外のことに、時間や思いが捕らわれているな、と感じているなら、これらの御言葉に思いをめぐらし、主の御許に行って主からのささきに耳を傾けて頂きたいと思います。
毎日、主のための場所を何よりも優先して、とっておくことができますように。
その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。(詩篇三七編三一節)
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ三章十六節)
あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。(コロサイ二章八節)
・・・心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。(ヤコブ一章二一節後半)
・・・信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。(ローマ十章十七節)
ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。…いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。(マタイ十三章七、二二節)