三月二八日 苦しむ者が呼ばわる時 (二〇一三年 ひとしずく一三八七)
娘の胃潰瘍の診察のため、娘に付き添って病院の待合室で待っていました。
すると、二歳くらいの男の子が警備員の手にひかれて目の前を横切って行きました。男の子は待合室全体に響き渡るほどの大声で泣いています。どうやら迷子のようで、警備員が放送できる事務室に男の子を連れて行くところでした。こうした大病院では、お母さんの居場所を見つけるのも大変です。
アナウンスメントが何度もされている間、泣き叫ぶ男の子を、警備員が一生懸命あやしていました。しかし静まりません。今度は案内係の女性が話しかけて抱っこをしてあやしますが、それでもやっぱり泣き止みません。
そこへついに赤ん坊を抱いていた母親が現れ、男の子は、まだ泣いていたものの安堵したようでした。
この間、私は待合室で、祈りについてのある本を読んでいました。
そして、この男の子の一件を通して、祈りについて、もう一つ深い洞察が与えられたように思えました。
それは、神様は意図的に私たちの望みや期待、欲求に沿わない状況を造られるけれど、私たちが現状をただあきらめて受け入れてしまうのではなく、神様に迫り、時には神様と闘争してまでも、求めるものを受けることを神は望んでおられるかもしれないということです。
神様は普通、私たちがいくらかの休息と慰め、励ましを得るために、リラックス、快楽、溢れるばかりの供給をされますが、私たちの信仰の生活が、全て容易な道を滑るように進むものであるかというと、そうではないのが現状です。いや、むしろどちらかと言うと、現実は、イエス様が言われたように「世にあってあなたがたは悩みがある」ということだと思います。
神様は私たちを愛してくださっていますが、その愛ゆえに、私たちに必要な困難、試練を備えていてくださる方です。かつ、その中から私たちを救い出してくださり、祈りに答えられる方なのです。
そしてもう一つ、学んだ大切な事があります。
病院内で迷子になった男の子は、必死に泣いて母親が来てくれるのを求め続けていました。母親が現れるまで、他の何ものも彼を泣き止ますことはできませんでした。いくら泣いても彼には、何事も起こらないように思えたことでしょう。しかし、泣き叫ぶことによる彼の必死の祈りは、院内放送で母親に呼びかけさせ、案内係の女性に抱きあげられながら母親を捜し回らせていたのです。まるでこの世の終わりであるかのような(実際、本人はそんな境地だったのでしょう)彼の泣き叫ぶ声に、心動かされぬ人はいなかったのではないでしょうか。警備員、案内係の女性、そして待合室にいた大勢の人たち。
きっと私たちが苦しみや悲しみの中で、主に必死に助けを叫び求める時も同じなのではないかと思います。その暗闇の中で、どんなに祈り求めても何も変わらないように思える時にも、私たちの切実な祈りは、確実に神様の御手や天使たちを動かしているのです。
この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。(詩篇三四篇六~八節)