神は愛である

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2023年3月25日

三月二五日 神は愛である (二〇一三年 ひとしずく一二三二)

 「神は愛である」(第一ヨハネ四章八節)

これは聖書に書かれている言葉です。クリスチャンであるなら誰もがよく知っており、また頻繁に引用する言葉でもあります。しかし、本当にこの意味がわかるようになったのは、神が、実は、三つの人格を持っておられる方だとわかってからです。

  もし神が聖書で言う父なる神お一人だけであるなら、愛は存在しないと思います。愛は、自分を与えることであり、その対象がいないなら意味を成さないからです。 愛は、自分を捧げ、愛する相手がいて、初めて生きたものになるのではないでしょうか。

  天の父は、イエス様に対して、「これはわたしの愛する子」(マタイ三章十七節)と天から言われました。またイエス様も「父が私を愛されたように…」 (ヨハネ十五章九節)と言われました。 そして父は「…さばきのことはすべて、子にゆだね」(ヨハネ五章二二節)ています。

  お互いがいてそこに愛が生じます。イエス様も父を愛されて、「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかた(父)の、み旨を求めているからである。」(ヨハネ五章三〇節)と完全なる父への依存と信頼を示されました。

  イエス様は「私を見たものは父を見た」「父とわたしは一つである」とも言われました。 また、イエス様は「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊(聖霊)が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」 (ヨハネ十五章二六節)と言われましたので、父の「みもと」には聖霊がいつもおられることがわかります。そして、聖霊は人々にイエス様が父のもとから来られた真実な神であることを証言します。

  またイエスさまは、自分のことを悪く言ってもかまわないが、聖霊を汚してはいけないと語られました。「…人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」(マタイ十二章三一節)

  ですから、この三者(格)はお互いに栄誉を与え、愛し合っているのです。それでいて「主は私たちの神。主はただひとりである」(申命記六章四節) とあるように、三者は一つなのです。それは、父も子も聖霊も、三つの人格を持ちながらも、性質において同一であり、思いも意志も一つだということです。

  私たちはこの三位一体の神を仰ぐ時、お互いに対して深く聖い愛を抱き、お互い栄光を与え合う神を見て、愛するとはどういうことかを学ぶのです。

  ちょうど、お互いに尊敬を示し合い、中むつまじくしている人たちを見ると、自分たちももっと愛情深く、敬意を払い合う関係を築きたいという願いが生じるように。

創世記の一章には、「神はまた言われた『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り…』神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、 神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記一章二六、二七節)とあります。また神は霊であり、また愛であられるので、ここから、自分たちが愛し合うように、人も愛し合い一つとなる存在として造られたということがわかると思います。ここでも唯一の神がご自身のことを「われわれ」と複数形で呼ばれていることは、三格の神を指しています。

  この神は、自分たちがお互い愛し合って、それで満足しているから、他のことはどうなっても構わないという自己中の方ではありません。私たちのために、子を送られ、聖霊を送られ、父もまた子も聖霊も私たちの中に住まわれるためにやってこられる神です。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(第一テモテ二章四節) のです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ三章十六節)

  私たちが、そして全世界の万物が神の愛で満たされ、真の平和と愛に与るまで、そして全てが神と和解され一つになるまで、愛を注ぎ続け、手を差し伸べ続けて下さるのです。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。(ヨハネ十四章十六節)

イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。(ヨハネ十四章二三節)

  この神は、私たちを愛して、その愛の交わりの中に招き入れたいと思っておられます。

すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(第一ヨハネ一章三、四節)

  私のところに父なる神とイエスさまと聖霊がやって来てくださり、住んでくださるのです。私たちはこの三位一体の神の宿る宮なのです。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。(第一コリント三章十六節)

  この三位一体の神は、お互いを愛し栄光を与え合っている愛の神です。そしてこの神は、周りの人たち全ての人たちのために取りなし、手を差し伸べ、愛を与えて下さる神なのです。 私たちは、この愛の神から愛のいましめを受けているのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。(ヨハネ十五章九節)

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。  

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

  わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(第一ヨハネ四章七~十節)

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