どちらを信じる?
「ひとしずく」ーーひと昔編
小さな 細胞が、何かのエネルギーを受けて、突然変異を繰り返し、単細胞生物から多細胞生物に、そして何億年もかけて高度な生物に進化していく.・・・
これは、 進化論者が唱えている推測です。
しかし、もし全ての生き物がそのような進化を辿ったのなら、その進化の過程における中間的な生物の化石がありあまるほどに発掘されるはずですが、それは一つも見当たりません。
リー・ ストロベルという元シカゴ・トリビューン誌の記者が書いた「宇宙は神が造ったのか?」という本がありますが、彼はその中で「反進化論–ダーウィンはまちがっている」(マイケル・デントン著)からの引用を掲げています。
「古生物学が行ってきた広範な研究によると・・・存在が期待された無数の連結環はまだ発見されず、ダーウィンが『種の起源』を書いた当時と少しも変わらずに化石の記録は生物の不連続性を示すのみである。中間型はいぜんとしてわからないままであった。一世紀たっても、中間型の不在は、化石の記録に関するいちじるしい特徴の一つである」
中国では化石のニセモノ製造工場さえ存在しているそうですが、ねつ造された化石なども多いのです。しかし、あくまでも生物が進化するということを前提に、その証拠を探しだそうと懸命になるなら、生物の小さな骨の化石のかけらをみつけると、これこそ進化過程の生物の化石、進化論の証拠と主張したくなるのです。
その主張を信じるには、かなりの想像力が必要となるので、 頭の中で造り上げた進化途中の生物の姿を、アーティストや剥製制作者や、グラフィックデザイナーによって作らせ、さも、その生物が実在したかのように思わせるのです。
考古学者の多くが、進化論をいつまでも実証できないのは、やはりそれは単なる空論だからでは?と思うのは当然ではないかと私は思うのです。
(前述の本は、いのちのことば社から出版されています)
先日、 地球科学を専攻していた友人が話していたのですが、地球の北半球の陸地と海の割合、また南半球の陸地と海の割合や、地軸の傾き、それらが微妙なバランスをとっていて、生命の存在できる温度が保たれているということです。
どれだけ私たち生命が微妙なバランスの上に維持されているかということを考えると、驚いてしまいます
宇宙にある太陽系の太陽と地球の軌道だけをとってみても、その軌道、周期、回転すべて、先ほどの陸と海の割合のように、わずかの数値が違っていても地球には生命は存在しないということになるそうです。
進化論についても、聖書についても、では、あなたはその時そこにいたのか?と尋ねられるとどちらも信じるというところに行き着きますが、宇宙や、また生物一つ一つのその精巧さを見ても、意思のある方がこれらを目的あって設計し、造られたと見るほうが私には、進化によってできたと見るよりも、もっと理にかなっているように思われます。
聖書には、「初めに神は天と地を創造された」(創世記一章一節)と書かれています。この地球や宇宙に関しては、まだまだ解明されていないことがたくさんあります。そもそも神様のなさる御業を始めから最後まで全て見極めるなど私たちには無理なことなのです。
想像を越える壮大な宇宙を造られた神様が、小さな地球の小さな生き物一つ一つの命を顧みてくださり、また私たちの心の痛みをもご存知で、この地上に降りてきてくださった.・・・。
まさに全知全能でありながら、大いなる愛をもっておられる創造主なる神・・・。私たちは、この愛なる神によって創られたのです!ハレルヤ!
神はまた言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。(創世記一章九、十節)
原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められた。(新共同訳 箴言八章二九節)
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。(伝道の書三章一一節)。
わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」(詩篇八篇三~九節)