のがれの町
「ひとしずく」ーーひと昔編
大学入試のカンニング事件で逮捕された十九歳の若者につい て、「逃げ道」を作ってやるべきだと主張している新聞の投稿を読んで、その人の意見に私も同感でした。
「大学側は被害者届を取り下げてほしい。カンニングは許せない行為だが、少年は反省している。子供は不完全な存在だから『君にも未来はある』と諭すことが教育者の態度。愛こそが必要だ。」(「夜回り先生」元定時制高校教諭 水谷修さん–東京新聞三月五日三一面)
聖書の民数記には「のがれの町」というのが書かれています。
あなたがたのために町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。(民数記 三五章十一節)
神は旧約の時代に「のがれの町」を設ける事によって、罪人に対する愛を示されました。
たとえあやまって人を殺してしまった犯罪人に対してさえも、主は逃れる道を備えて下さっていたのです。主は、済まなく思い、悔い改めようと思う者に対して、憐れみを持たれます。
この「のがれの町」とは、イエス様の罪人に対する愛と赦しの予型でもあったのだと思います。
イエス様は、神の裁きを受けて当然の者に対して「のがれの町」のようになって下さるのでしょうか?そうです。
当時の石打ちの刑に値する女性がイエスの前に連れてこられた時、イエス様はその女性を石打ちで殺されることから救い出しました。
律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女を ひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(ヨハネ八章三~十一節)
またイエス様は、御自分を十字架につけ殺そうとしていた者が、神から裁きを受けて罰せられることのないように、取りなしの祈りをされました。
されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエ スは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った」(ルカ二三章三三、三四節)
今でもイエス様は罪人のための逃れの町、また避け所となって下さいます。その罪人とは私たち自身も含まれています。私たちをイエス様が助けて下さるのは、 それに値するからではありません。ただ神の憐れみによって、匿い、保護し、救い出して下さるのです。世界中の一人一人がそれを知っているなら、もっとこの世は赦しと憐みに満ちたものとなるのでしょう。
罪を犯した人に対して、「十字架につけろ!」と拳を突き上げ冷たく叫ぶ人々を、主は悲しげに見ておられるのではないでしょうか?