時のしるし
「ひとしずく」ーーひと昔編
ニュージーランドで起きた地震後、初めての日曜日となった二十七日に、クライストチャーチ市内の各教会では、日曜礼拝が開かれ、犠牲者を悼んで、多くの人々の祈りが捧げられました。
その様子をニュースの写真で見ながら、クリスチャンである私としてはこう思わずにはいられませんでした。「何故?よりによってニュージーランドのクライストチャーチ市(キリストの教会の意)で地震が起こったのか?」と。ニュージーランドでは人口の半数、二百万人以上の人がクリスチャンと聞きました。特にクライストチャーチ市には大聖堂もあり、多くのクリスチャンが住んでいることでしょう。そこに何故、このような災害が起こったのでしょう?また地震が起ったにしても、キリストの像だけは立っていたとか、 キリストの教会堂だけは一つも損害がなかったとかいうなら、もっと合点が行きますが、町のシンボルとも言える大聖堂の塔が崩れ、無残にも十字架が地面に投げ出されていたということを聞くと、たとえ悪魔がそれを引き起こしたとしても、神様がそれをどうして許されたのかと、理解に苦しむのです。
もちろん、神様のしておられることの理由を全て理解することなどできるはずはないのですが、もう少し私の思いの中で納得できたらなぁと思っていました。
そんなことを考えていると、ふと次のような聖句が心に浮かびました。
さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。(第一ペテロ四章十七節)
神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思い をとりこしてキリストに服従させ、そしてあなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。(第二コリント十章四節)
主は、主の子供たちである私達をまず最初に正そうとしておられるのかも知れません。
この世の人々は、かなり勝手なことをし、犯罪や不法がはびこっています。本当に神様の裁きが必要だと思えることをたくさん目にします。 しかしキリストの教会 (クライストチャーチ)と呼ばれる私たちクリスチャンにも、法でいう罪は犯さないまでも、神の教えに対する妥協や不従順の罪がたくさん入り込んでいるのではないでしょうか?
地震で崩れる前のクライストチャーチにあった、大聖堂は、以前にも何度も崩れてしまったことがあったそうです。今回の地震によって崩壊してしまう前の大聖堂の写真をインターネットで見ましたが、もしかしたら、あのような豪華な大聖堂を主は望んでおられなかったのかもしれません。もしかしたら、主は、観光名物化してしまった建物と、キリストの名と何も関係ないことを知らせようとして、このようなことを起こされたのでしょうか?
主は、まず身内である、神の子たちから戒め清められ、それによって、これからこの世界に起ろうとしていることに対して、神の子たちを備えようとしているのではないでしょうか?
だからと言ってこのクライストチャーチの町の人たちや犠牲に遭われた人たちが特別、他の人たちより、邪悪であったというわけではないと思います。
シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。(ルカ十三章四、五節)
この聖句にあるように、この出来事は、主が私たち神の子供たち全てに示して下さった警告なのかもしれません。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴れだ』と言い、また明け方には、『空が曇ってまっかだか ら、今日は荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか」。(マタイ十六章二、三節)
私は、これは単に遠い他国で起きた災害として捉えるべきではないと思います。主はこの出来事を通して、私たちに「時のしるし」を与えられたのではないでしょうか?
もしそうだとしたら、私たちは何をするべきでしょう?
最終的にイエス様が帰ってこられる前に、主は、これら全てを通して、私達個人一人一人と、また世界を備えておられるとしたら、 主は、私たちに、何を悔い改めさせ、どんな面で変わり、何をしてほしいと願っておられるのでしょうか?
主が、私たち一人一人に持っておられる大切なメッセージを聞き取れますように。