「ひとしずく」ーーひと昔編
もう、タンポポが咲いている と友人が教えてくれました。
春になると、自然から主の恵み深さをたくさん感じますが、私は特にタンポポには、いえ、タンポポだけではなく、ヨモギやスギナやドクダミなど、こうしたあらゆる野草には、特別に主のめぐみ深さを感じます。
東京から那須に引っ越して初めての春は、私の妻は体が弱り切っていました。そんな時、私たちは、友人が下さった野草についての本を読み、家の周辺の道端に 生えている何種類もの草花が食べられるものであり、しかも健康に良いものであること、そして妻の体力をも回復させてくれるものだということを知りました。そして私たちは、頻繁にそれらの野草を摘んでは食べるようになりました。タンポポやヨモギの天ぷらは、とても美味しいものでした。私たちはそれらの野草が、あちこちいっぱいに生い茂っているのを見て「わー、たくさん野菜がある!」と感動したものでした。
地は主のいつくしみで満ちて いる。 (詩篇三三篇五節)
神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。 (詩篇一三九篇十七節)
神様が私たちに与えてくださったこの地は、何と恵みに満ち、何と祝福に満ちていることかとつくづく考えさせられます。
しかし残念ながら、私たちはそれを失うまで、その恵みに気づかないことがあります。最近は、放射能で多くの地域の農作物や土が汚されてしまいました。主が備えてくださったものを人の手で汚してしまったために、その恵みをあるがままに頂くことができなくなってしまったのです。そして私たちは ついにその深刻さに気づかされ、何とかしなければならないという思いに駆られているのです。
このようなことは、自然に限らず、社会生活や人間関係、また家庭の中でも言えることだと思います。
私たちは、元々、主を愛し互いを愛し、創造されたものを大切にするようにと造られました。そしてお互い、恵み深く共に生きることができるはずなのに、人の勝手な思いと行動によって関係を汚してしまい、その美しい関係や美しい人生の輝きを曇らせるようなことが色々とあるのです。そして、そん な関係で、あるいは状態で仕方がないとあきらめてしまっていて、主の望まれている状態からかけ離れてしまっているのに、心の中には、 自分が相手を愛さずにいることや、自分がどうして主に近く歩まないでいるかについての、たくさんの言い訳が積み上げられているのです。
私たちは、心の中で、どうして自分のようなものが他人から受け入れられてもらえようかという自分を赦さない心を持ってしまう傾向があると思います。自分の心の奥底では、様々な過去の過ちに気づいていて、自分でも自分を赦せなかったり、またそのため周りの人に対しても意地悪な思いが湧いてくるものです。そし て、自分はいかに孤独で大変な障害物にとりかこまれていることか、という希望のない状況に浸ってしまうのです。
しかし、そうである必要はないのです。主は、私たちの全ての罪をあがなってくださいました。私たちは、それを御言葉から知っていますし、聖霊も私たちに神様の愛を証 してくださっています。
希望は失望に終ることはない。なぜなら、私たちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
正しい人のために死ぬ者は、 ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(ローマ 五章五~十一節)
聖霊は、私たちにつっぱる必要もなければ、自己弁護のための言い訳も「お前だって、ひどいじゃないか!」と非難の矛先を他に向けることもないことを思い起 こさせてくれています。ただ、主の赦しを受け入れ、新しい命に、聖霊の力によって一歩踏み出すようにとささやいておられるのです。
主が生きるように意図された 生活は喜びと平和と愛で満たされたものです。どうか心から発する思いの声ではなく、聖霊のささやき声によって、今日、主の喜びの内を歩む 事ができますように。
主よ、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ十七章九節)とあるように、私たちは、自己努力と内省によっては、主の望まれている聖さには到達できません。
だれが「わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められた」ということができようか。(箴言二十章九節)
私たちはあなたの助けと恵みによって生かさせて頂いています。
「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、私たちは救われたのである。」(テトス 三章五節)とあるように、すべてはあなたからの恵みとあなたの霊によるものです。主よ、あなたの聖霊によって日々、私たちの心の深みまで新しく造りかえ、私から発する言葉と行動が、あなたの恵みに満たされたものとしてください。私の義とその自己努力の業ではなく、あなたの恵み深さが反映される人生を歩ませてください。それによって全ての栄光があなたに帰されますように…。
わたしたちはみな…主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (第二コリント三章十八節)
心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。(エペソ四章二三、二四節)
神の国は… 義と、平和と、聖霊における喜びとである。(ローマ十四章十七節)