「ひとしずく」ーーひと昔編
黙示録について調べていると、ある資料に黙示録には「御使い(天使)」について二十七の記述があると書かれていました。
例えば、黙示録九章十五節と十六節には、四人の御使いが二億のユーフラテスの騎兵を解き放ったことが書かれていたり、黙示録十二章七節に はミカエルとその御使いたちが竜とその使いたちと戦ったことが書かれています。
聖書には、これだけ御使いたちのことが語られている箇所は他にありません。
ところで、これらの力強い御使い達は、誰の指揮の下で働き、誰に栄光を与えているのかというと、私たちの主イエス・キリストです。
黙示録5章11節と12節にはこうあります。
御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでい た、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」
万の幾万倍というと、一万 × 一万 = 一億。 つまり幾億もの御使いということになります。そして「ほふられた小羊」というのは、イエス・キリストのことです。バプテスマのヨハネはイ エスについて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一章二九節)と言われました。イエス様は、地上におられた時、自らの命を、万物のあがないのために与えて下さったのです。
神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(第 一ヨハネ四章十節)
それゆえ、天使を含むあらゆる生き物が彼の栄光を讃えているのです。
しかし、イエス様が地上におられた時、彼が何億もの天使たちを従える権威を持つ神であることなど、誰が思ったことでしょう?
イエス様は捕らえられようとした時、弟子たちにこう言われました。
「わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。(マタイ二六章五三、五四節)
主は、力とあらゆる権威を持ち、天使の軍団に命じてどんなことでもできる方であるのに、そうした権威を用いず、自分に与えられた愛の任務を遂行しました。その任務とは、人々が罪から解放され自由になるために、小羊のように引かれて行って、自らの命を与えることだったので す。
イザヤ53章には、イエス様についてこう預言されていました。
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼 は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊 ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与 え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地 から断たれたのだと。(イザヤ五三章一~八節)
神の不思議なあがないのご計画が、人の罪深い暴虐によって成し遂げられたのです。
主は、苦しみを通られましたが、それは私たち罪ある者たちを神と和解させ、罪から解放して義とするためだったのです。それゆえ、主は苦しみの中にあっても、私たちが解放されることを喜んでいたのです。
私たちが聖霊の喜びを持っているのは、イエス様のそうした愛と願いと祈りと犠牲によります。彼と喜びを共にするためです。
たった今もイエス・キリストは生きておられ、私たちが主にあって、聖霊の喜びに満たされることを望んでおられます。
ところで「黙示録」は英語で「レビレーション」、ギリシャ語で「アポカリュプシス」と言いますが、どちらも「覆いを取り去る」という意味です(英語はラテン語の「覆いを取る」から由来)。
「肉の視界」という妨げの覆いを取り去って、明らかにされた真実は、私たちが地上のはかない短い人生だけを思って、築き上げてしまった間違った人生観、社会観、神観を打ち砕いてくれます。
肉の視界ではなく霊の視界によってものごとを見るなら、私たちには、何億もの天使たちが賛美を捧げ、仕える主、イエス・キリストが私たちのすぐそばにおられるのがわかるでしょう。このことによって、私たちは主の御心に生きようとする時、この世も人の目も何も恐れるものはないのです。
どうか、私たちがもっと霊の内に物事を見ることができますように。