「ひとしずく」ーーひと昔編
先日NHKで、コンピュータVS棋士の将棋の戦いについて報道していました。結果は、日本将棋連盟会長の米長邦雄氏が 敗北してしまいました。
私は、コンピュータの技術がそこまで進んでいることに驚いたと共に、これは、これから社会の色々な面で起るかもしれない予兆を示したものでもあるのではないかと思いました。
開発に関わった研究者が、このようなロボットの開発によって、農作業も温度や湿度などの状況を解析して、どれだけの水を撒いたらいいかなど、最高のアドバイスを人間に与えることができるだろうと言っていました。
私は、人間と、人間の知識を集積し自主学習できるコンピュータとの勝負なら、コンピューターの方が勝つのは当然だと思います。コンピューターは、今迄の将棋の優勝者の駒の打ち方を全て記憶しており、そしてそこから学習しているというのですから。
この勝負の結果によって、コンピューターは人が造ったものではあるけれど、学習や知識の集積を繰り返していることによって、(この将棋の勝負に関 しては)人の判断よりも優れた判断を下すことができるようになってきたということを示していると思います。
そして、人々は、これを人間の社会のあらゆる分野で役立たせるために、さらに開発を進めようとしていることでしょう。
こうなってくると、将棋の世界だけではなく、国や会社の運営、また家庭生活まで、こうしたコンピューターの頭脳が、問題解決に四苦八苦している人間に何をしたらいいかを命令するようになるのも、そう遠い未来ではないように思えます。
ところで黙示録13章の、終わりの時の預言にはこうあります。
その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(黙示録十三章十五節)
今、コンピューターは、物を言うことができるようになっています。したがって、この像というのはコンピューターを示して いるという解釈があります。
そうだとすると、コンピューターが人間にあれこれ指図をし始める時がやってきても不思議ではないと思えます。
多くの人は、機械に支配される生活なんて嫌だと思っているでしょうが、実際、かなり機械に依存するようになってきており、益々機械に使われるようになっているというのが現実ではないでしょうか。
また「息を吹き込む」と書かれていますが、まるで、その像が生きた者になるような響きさえあります。その将棋の対決でコンピューターに破れた棋士も、そのコンピューターと対戦していた際に、彼の知っている棋士を相手に戦っているように感じたと言っていまし た。そうした名棋士の今迄のあらゆる戦法をインプットしているコンピューターですから、そのように誰かの霊が乗り移っているように感じた のでしょう。
ところで、将棋をする際、コンピューターがどのように判断、決断を下していたかというと、「歩」「金将」「銀将」「角行」などそれぞれの駒の価値は数字で評価されていて、どうしたら、一番点数の面で低い失点、また高得点ができるかという評価を繰り返しながら、将棋を進めていくとのことでした。
コンピューターのソフトウェアを開発し、インプットするのも人間ですが、このような数字でしか物事を考えられないコンピューターが、人間社会の抱えている問題を解決するために利用されるとしたら、とんでもない間違いが起こる可能性は大有りだと思います。
しかし私たち自体、すでに数字による評価に、慣らされています。学校教育がまずそれです。成績は点数で決められ、進路も点数の評価で決められます。また仕事、給料、ポジション、全て評価と結びついているのです。
しかし主の造られた世界は、人間やコンピューターが絶えず数字で価値評価する世界とは異なります。主は、人に点数をつけて評価されないのです。また、容姿、能力、癖、頭の回転の速さ、記憶力などで評価されることもありません。主は心を見ておられるのです。
主は、ご自分の命を代価に、私たちの魂をあがなって下さいました。それほどに愛してくださっているのです。
たとえ人間がコンピューターに支配される時代が訪れたとしても、やがてその時代 は、新しい時代に取って代えられることでしょう。そして主の愛と、互いに価値評価し合うことをせずに、お互いを受け入れ合い、平和に暮らす世界が到来するようになるのです。
御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人 と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛み もない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 (黙示録二一章三、四節)