「ひとしずく」ーーひと昔編
世界各地で、寒波の影響を受けて大勢の犠牲者が出ているようです。雪の多い所では、この降り積もった雪は深刻な問題になっています。
私も先月から、秋田に移り住み、屋根の雪下ろしや雪かきに追われています。しかし何と言っても、その作業にもまして大変なのは、寒さです。この北国の寒さの厳しさ辛さというものを、特に風邪をひいて、身にしみて感じています。
今までここで一人暮らしをしてきた母親は、一階にヒーターが一つあるだけの生活をしていましたが、私たちはもう一つ持ち込んだヒーターで、2階の部屋も暖めています。しかし、こうした局部的な暖房というのは、部屋によって温度差が大きくなります。特に実家は、古い家だからでしょう、隙間が多かったり、安い材料で作られているのかもしれませんが、ある部屋は、本当に寒く、以前私の弟が泊まった時に「この家は冷蔵庫だ」と話していたそうですが、冷蔵庫というか、冷凍庫と言った方が正確かと思うほどの寒さです。寒い時にはマイナス十度くらいになります。病んでいる時には、特にその温度差が体に響きます。
「とにかく暖かい部屋がほしい・・・」風邪で頭痛を抱え、鼻水をかみながら、思うのはそのことばかりでした。
「部屋の壁がベニヤであろうが、壁紙が貼られたものであろうがなかろうが、とにかく暖かければそれでいい」これが私の体の叫びでした。
しかしそんな時、家族が、しょうが湯やニンニク炒めを作ってくれたり、湯たんぽで布団を暖めてくれたりしました。子供たちは、雪かきは自分たちだけでやるからと言ってくれました。彼らの思いやりに、何と、心が暖められたことでしょう。
私は「愛があれば、何もいらない」という言葉を思い出しました。
あらゆるものがあっても、愛がないなら、心が凍えて死に絶えてしまうような気がします。人の心は、愛によってしか暖められないのです。
現代社会を形容するのに「索漠とした」という言葉がよく使われます。辞書によると「心を満たすものがなく、もの寂しく感じるさま。荒涼として気のめいるさま」とあります。
これは愛を求めても得られない状態のことを指しているように思えます。
聖書には「多くの人の愛が冷える」時代が到来すると、イエス様が語られている箇所がありますが(マタイ二四章十二節)まさしく今、そういう時代に入りつつあるのではないでしょうか。
自殺者数は一向に減る様子もなく、家族の消息がわからないという人の数も含めたらどれだけの数になるのでしょう?
寂しい思いを抱えて、毎日孤独に生きている人が、おそらく私たちの周りにも大勢いることと思います。
何がなくても寒くても、愛の暖かさがある。そんな場所があるなら、素晴らしいと思います。そしてそれこそが、世界中の全ての人が第一に求めているものなのではないでしょうか?
聖書には、次のような言葉も記されています。
何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。(第一ペテロ四章八節)
どうか、私たちが、互いの愛を熱く保ち合うことができますように。それによって、愛の冷えつつある世にあっても、主の愛の灯火として燃え続けることができますように。
愛があるなら、
粗末な家でもかまわない
愛があるなら、
貧しくても食卓に喜びがある
愛があるなら、
相手の欠けたところなど気にならない
愛があるなら、
寒くても暖かい
愛があるなら、
病にあっても幸せだ