「ひとしずく」ーーひと昔編
今日、息子と母と一緒に鍛冶屋さんに行きました。薪割りに使う 鉞(まさかり)を手に入れるためです。
感謝する事に、ある友人が、私たちに作業着を買って下さいと寄付を送ってくださいました。今、作業に着る服はあるので、友人に鉞のために使わせてもらっても良いか尋ねると、自由にどうぞ、ということで、鉞を購入させて頂くことにしたのです。
以前、手に入れた鉞は、柄がファイバーグラスで見栄えは良いのですが、柄と歯の間に隙間が空いてしまい、使えなくなってしまいました。やはりこういう道具は、昔ながらの道具が一番というわけで、古くからある地元の鍛冶屋さんを尋ねたわけです。
その鍛冶屋さんには、ホームセンターで見たのと同じ品物が置かれていましたが、二本だけ鍛冶屋さんで造られた大きさの違う鉞がありました。一つはかなり大きなもの、もう一つは、ホームセンターに置かれてあったのと、その大きなものの中間ぐらいのサイズのもの。
薪割りは、今ではもっぱら息子の仕事になっています。かなり太い丸太を割るために、重い方が威力があって良いのですが、その分、薪割りをするのにすぐ疲れてしまうだろうということでした。それで、中間のサイズのものをお店の方から提案されて、それを購入することになりました。お店の人が少しディスカウントして下さり、また母が足りなかった分を補ってくれました。
ちょっと高価な買い物になってしまったな、と思いましたが、その鉞を、どのように造り上げたかを聞いたら、決して高いものではないとわかりました。
その若いお店の人は、次のように説明してくれました。
「これは親父と一緒に造ったものです。私は助っ人です。私一人じゃ、まだまだその腕が無いんです。この一つの鉞を造るのに、私は重いハンマーで二百五十回叩くんです。もう途中で腕が上がらなくなってしまうんですよ。でも、これは、くさびや柄を取り替えたりしてやれば一生使えますよ」
うーん、さすが、職人さん。そのお店にそこで造られた鉞が二本しかないという理由がわかりました。それは、工場で簡単に大量生産されたものとは違って、職人さんの力と技能を出し切って造り上げられたものなのです。
ちょうど最近、包丁を造る刃物鍛冶職人の、ドキュメントを見たばかりでした。一本の包丁を造るのも大変なんだなーと思って見ていたのですが、この鉞を造るのも、それはそれは大変なものだと思います。
しかし、この店員さんが誇らし気に話していたように、出来上がる品物には、特別な輝きがあります。その製品に込められた職人さんの特別な思いがあります。
「一生使えますよ」と言い切れる製品は、このように心を込めて造られたものなのだな、と感動しました。
丹精込めて造られた品は、一つとして同じ物はありません。それを造り上げた職人さんにとっては、一つ一つがとても愛しい特別なものなのだと思います。
私は何だか、神様の私たちへの思いを、垣間見たように感じました。 私たちも、主の手の中にある器で、丹精こめて造り上げられた神の作品なのだと思います。いえ、まだ製造過程でしょう。主は、私たち一人一人を、愛と計画をもって、日々、造り上げて下さっているのです。
時には、ただ打ち叩かれ続けているだけのように思える時があるかもしれません。しかし、主は、私たちを優れた器にするために、そうして下さっているのです。
主の御心のままに造り上げて頂けるように、全知全能の造り主の御手に、すべて委ねることができますように。
わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた。(詩篇七三篇十四節)
主よあなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。あなたはその人を、災いの日からのがれさせ、悪しき者のために穴がほられるまで、その人に平安を与えられます。(詩篇九四篇十二、十三節)
わたしは死ぬ事なく、生きながらえて主のみわざを物語るであろう。主はいたくわたしを懲 らされたが、死にはわたされなかった。(詩篇一一八篇十七、十八節)
見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。(イザヤ四八章十節)
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られ たのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(エペソ二章十節)
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められる時、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのである。」 あなたがたは訓練として、耐えしのびなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられるのである。
いったい父に訓練されない子があるだろうか。誰でも受ける訓練があなたがたに与えられないと すれば、それこそあなたがたは私生児であって、本当の子ではない。その上肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼を敬うとすれば、なおさらわたしたちは、魂の父に服従して真に生きるべきではないか。
肉親の父はしばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、魂の父はわたしたちの益のため、その清さに預からせるためにそうされるのである。すべての訓練は当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、 平安な義の実を結ばせるようになる。(ヘブル十二章五~十三節)