真の平安 

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2023年2月7日

「ひとしずく」ーーひと昔編

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。(ヨハネ十四章二七節)

 幸せの大きな要素の一つに「心の平安」があると思います。人はこの心の平安を常に無意識的に、求めています。
 人によって平安の源をそれぞれ異なるものに求めていていることを想像することができます。ある人は、人との付き合い、ある人は他の人はtお金、家や物、健康、状況、場所、人からの評価などと、様々でしょう。
 確かにこれらのものは安らぎを感じさせてくれるかもしれません。しかし、人も、場所も、状況も皆、移り行くものです。ほとんどが一時的であり、あるものは何十年続いて、心に安らぎを与えてくれたとしても、それもやがては過ぎ去るものとなります。したがって、これらのものから与えられる心の平安は、いつか失うということになります。
誰々がいてくれるから安らぎがある、反対にいなくなったから平安を損なわれたというのであれば、真の平安は、そのようなところには存在できません。
覚えていなければならないのは、主が与えようとされている「平安」は、私たちが思っているものと異なるということです。先に例を挙げたように、普通私たち人間が求める平安の源は、人であったり、家やお金や物であったり、状況や場所であったりします。
しかしイエス様が与えて下さる真の平安とは、この世が与えるものとは違うのです。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です・・・」(ヨハネ15:5)とイエス様は言われましたが、私たち枝がつながっているべき木は、主なのです。したがって、私たちの平安の源は、主から来るのです。
 真の平安とは、イエス様が自分の全ての罪をあがなってくださったので、神様の前で恐れることなく歩むことができるとわかっていること、そして、イエス様がいつも変わらぬ愛をもって見守り保護してくださっており、起こる全てのことにイエス様が責任をもっていてくださること、そして自分や愛する人の肉体もやがて朽ち果てる時、その後には、その魂を胸に受け入れてくださる神様がいて下さると知っていること・・・。
それは永遠に失われることのない真理であり、真の平安なのです。
 
主が私たちに真の平安を与えて下さるのは、私たちがただ、人生を楽しく暮らしていくためのものではありません。主はこの地上を去られる時、弟子たちにこう言われました。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主は苦難の中で生きていかねばならない私たちだからこそ、この真の平安を与えてくださったのです。真の平安を持たなければ、とてもこの苦難の多い世の中で、命をかけて、福音を述べ伝え、主の光を輝かせることなどできないことを主は御存じであられたのです。
私たちが、どんな時にも堅く立って主に従って行くことができるのは、ただこの平安を持つことによってのみなのだと思います。
どうか、私たち一人一人が、真の平安をしっかりもって、イエス様に従って行くことができますように。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ十六章三三節)

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