主にあっての喜び

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2023年1月30日

「ひとしずく」ーーひと昔編

見るようにと勧められたブログを見ました。世界の陰謀についての暴露の内容でした。昔から陰謀説についてはいくつも話を聞いて知っていましたが、さすがに、 あー、ついにここまで来てしまっているのか・・・と思い、気持ちも引き下げられてしまいました。それで主に祈りました。
「主よ、こんな闇の世界、陰謀が当たり前になされるこの世界において、私たちは希望や喜びを持てるのでしょうか?」と。 すると「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、全てのことについて感謝しなさい。」(第一テサロニケ五章十六~十八節) 「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」(ピリピ四章四節)の節がやってきました。
 そうです。確かに、私たちの喜びは、この世のものからの喜びではありません。私たちの喜びは主から来るのです。

「主にあって喜ぶ」ということがどんなものであるのか、聖書からいくつか喜びについて抜き出してみました。

*天の報いを思っての喜び: 
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ五章十一、十二節)

*天国の宝を発見する喜び:
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。(マタイ十三章四四節)

*天国の一員であることの喜び:
霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。(ルカ十章二〇節)

*主の愛の内にいるからくる喜び:
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 
もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめ を守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため である。(ヨハネ十五章九~十一節)

*神様が祈りに答えて下さる喜び:
今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかっ た。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。(ヨハネ十六章二四節)

*主の真実の約束による喜び:
今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるため であります。(ヨハネ十七章十三節)

*御名のために苦しむ喜び:
使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。」(使徒五章四一節)

*希望を抱くことによる喜び:
望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。(ローマ十二章十二節)

*共感することによる喜び: 
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマ十二章十五節)

*聖霊における喜び:
神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。(ローマ十四章十七節)

*信じることから来る喜び:
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望み にあふれさせて下さるように。」(ローマ十五章十三節)
 
神様が私たちに与えてくださったのは、恐れの霊ではありません。そうではなく力と愛と、そして喜びの霊なのです。どんなに恐ろしい悪だくみも、神様の手にかかったら、霧のようにかき消されてしまいます。ですから私たちは、人を恐れるのではなく、神への畏れだけをもって、またその方だけを仰ぎ見て喜びにあふれているべきなのです。
どうか主にあっての喜びが、私たちの心に満ちあふれますように。
 
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはな りません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ十章二八節)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(第二テモテ1:7)

主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』(へブル十三章五、六節)

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