真理の自由に旅たつ

j
2023年1月25日

「ひとしずく」ーーひと昔編

私たちは普通、人の造り上げた常識や理論の枠の中で行動します。人の造り上げた価値観の中での行動です。しかし、本当にその人が、世に送られた 自分の使命を果たすには、自分の魂をその目的のために造られ、使命を与えられた神様に聞き従うほかはないのだと思います。それ以外の道には、本当の満足も、完全な平安も、喜びも、また充実感もないのではないかと思うのです。
 今朝、そのことを考えていた時、ハンマー投げの絵像が浮かびました。投手がハンマーをぐるぐる回している間は、どんどん勢いがついていきます。 しかし、それをただ回すだけだったら、何にもなりません。ハンマーは投手の手から放されて初めて目的地へ勢いよく飛んで行きます。
 私たちも今まで踏みならされた常識や、過去の経験、また人の目を気にする思いにつながれて、いつまでもそれから離れられないでいるなら、神様が、ただ導きのもとに新しいことをさせようとしても、何事も決して始まることはないでしょう。
 人の良い助言から、また自分や他の人たちの尊い経験と教訓から、力と勇気を受け取っても、自分の召された状況と神様の導かれているところで、それらの過去からのものをあとに残して、神様の導きの御手を頼りに新しい領域に踏み出さないなら、それらの良いことのように見える助言、賢者の助言 も、自分をつなぎ止めてしまう因習の鎖、だましごとの哲学になってしまうことでしょう。
 神様の真理は、私たちを自由にします。それは、この世の常識や考え方に縛られることなく、神様が自分のために用意してくださっている、果たすべ き使命を行う自由なのです。
 どうか、主が御言葉を通して明かしてくださる真理により、自由の霊によって、神様の導きに従い、ますます実り多き新年を迎えられますように!

 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのであ る。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ八章三一、三二節)

 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。(ガラテヤ 三章二四~二六節)

 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う 人間の言伝えに基くものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリス トにあって、それに満たされているのである。(コロサイ二章六~十節)

 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(詩篇 一一九篇一〇五節)
 
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。(ローマ 八章十四節)

あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 (第一ペテロ二章二一節)

他の投稿もチェック

神の声か、悪魔の声か

六月七日 神の声か、悪魔の声か (二〇一四 ひとしずく一五六九)  ある友人から、何が神様からの声で、何が悪魔からの声なのか、どうやって区別がつくのか?という質問を尋ねられました。   確かに実際は、アニメなどであるように、悪魔の声は必ずしも恐ろしい地獄の響きをもって聞こえてくるというわけではありあせん。悪魔は...

「一粒の麦」としての生き方

六月六日 「一粒の麦」としての生き方 (二〇一四 ひとしずく一五六五)  たまたま、友人の誘いで出かけていった古本市で、賀川豊彦全集の内の幾冊もの本をとても安く手に入れることができました。今まで時間がなくて、なかなか読めなかったのですが、先日夜遅くまでかかりましたが、一つの小説を読み終えることができました。...

信者同士の集まり

六月五日 信者同士の集まり (二〇一四 ひとしずく一五六四)  愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。(ヘブル十章二四、二五節) 信仰を共にする人たちと集まり、交わりを持つことは大切です。  パウロは、善を行うにあたって、特に信仰の仲間に対してそれを行うことを励ましています。また、信仰の仲間は、それぞれがキリストの肢体の一部であるとも聖書は言っています。...