「ひとしずく」ーーひと昔編
「人生は、はかない。だからこそ、今あるひと時 の喜びを大切にする。」
このようなことが、昨日の新聞に書かれていました。仏教を信奉している方の言葉で、被災者の励ましのために掲載されてい ました。突然、被 災者となり、人生の大きな変化に対応しなければならない人たちにとっての喜びということについては、私もよく考えさせられました。確かに 人生は、はかない ものであるように思えます。そしてこの世の喜びは、やはり「ひと時」でしかないのでしょう。
栄華を極めたソロモン王は「空の空、いっさいは空である」と言いました。ソロモンは、紀元前一千年頃の人物なので、紀元前五世紀頃の釈迦の五百年以上も前に、人生の儚さ、虚しさを語っていました。
ソロモンといえば、富も知恵も他のどの国王にも 勝っており(列王上十章二三節)、王妃としての妻が七百人、そばめ三百人を持っていた王です。(列王記上十一章三節)つまり、地上で手に入れ ることのできる、あらゆる贅沢を極めていたことが伺えます。
しかし、ソロモン王はそんな中で、人生のはかなさ、空しさを感じ「いっさいは空である(空しい)」(他の訳では「無意味」)と言ったのです。そのことを考えると、真の喜びは持ち物によらないということがわかります。
それでは、一体、この世に真の喜びはあるのでしょうか?そして、もしあると したら、それは何なのでしょう?
私は、この世が与え得る真の喜びはないのだと思います。たとえ、喜びと感じ たとしても、それはやがては消えゆく束の間のものなのです。
しかしイエス様は、この世が与え得ない「真の喜 び」があることを教えられました。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あな たがたはわたしの 愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを 話したのは、わた しの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。(ヨハネ十五章九~十一節)
イエス様が下さるあふれるばかりの「喜び」は、人生をはかないままにしておくことはありません。そしてそれは、彼が下さる「平安」についてもそうです。
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。(ヨハネ十四章二七節)
これらのことを あなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わた しはすでに世に 勝っている。(ヨハネ十六章三三節)
イエス様が下さる喜びと平安は、この世が与えるものとは異なります。それは、周りの状況や、持ち物、また自分の求めてい たものがどれだけ得られたかに依存しないのです。永続する真の喜びは、神の御心を行うことから来る喜び、そして主そのものを喜ぶ喜びで す。 神様が喜ばれると知っていることを行う時、私たちの心には喜びが宿ります。 そして、それに加えて、私たちが神様の愛を 喜び、共に歩んで 下さるイエス様を喜び、最善を取りはからって下さる神様の知恵とご計画を喜び、万事をかえて益としてくださる神様の力を喜ぶなら、この喜 びは、絶えず変化 する事象に影響されることはないのです。
神様は私たちに、このように求めておられます。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。(第一テサロニケ五章十六~十八節)
私たちの「喜び」は、ひと時の喜びではなく、いつまでも続く喜びです。
神様は、愛するわが子の成長と幸せを願う親のように、いえ、それ以上に、私たち一人一人の人生を事細かに気遣い、私たちの人生に深く携わっ ておられます。神 様はまさしく、私たちが「いつも喜んで」いるに値する人生を下さっているのです。したがって、何があってもなくても、私たちには「いつも 喜んで」いる理由があるのです。
たとえ感情が伴わない時にも、とにかく私たちが「喜ぶ」という決意をする 時、その喜びは真の喜びとなって私たちのものとなるのです!
大きな変化のスタートを前に、私はこの「喜び」が本当に欲しいです。
「いつも喜んで」生きるということが、私の個人的な新年の祈りです。
主を喜ぶことはあなたがたの力です。(ネヘミヤ八章十節)