ふるさとはどこ?

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2023年1月13日

「ひとしずく」ーーひと昔編

「わたしは故郷を無くしたのよ。もう戻るところはないの。全部流されてしまったから。」被災地を走る電車の中で出会った高齢の婦人が言いました。
ここ一年、自分の生まれ育った秋田にいて、私は故郷の良さというものを実感していたので、 この婦人の気持ちがわかるような気がしました。私は学生の時から、故郷を離れて日本中あちこち、世界のあちこちを歩き回りました。こうして、東京と秋田を言ったり来たりではあっても、生まれ故郷で暮らすということは35年ぶりのことです。
 以前の私だったら、故郷と言っても、田舎の辺鄙な場所というイ メージしか持っていなかったので、故郷を無くしたと聞いても、その痛みのいくらかも感じとれなかったことだろうと思います。
 しかし、今、田舎の人情味のある人たちと知り合いになり、その人たちと助け合って生きてみて、故郷の良さ、有難さを知り、故郷を失うということがどれだけ悲しいことか、少しわかるようになってきたと ころです。
この田舎町には、現代の社会が失ってしまった幾つもの素晴らしいことがあります。
 しかし、残念なことに田舎でさえもその良いところを失いつつあるというのが現状だと思います。田舎を成り立たせる人が誰もいなくなってしまうのなら、故郷が無いのと同じだと思います。
 また、人が美しいものを大切にせず、自然の美しさが損なわれるままにしてしまっても、同じです。
 以前通ったことのある盛岡から宮古への道路は、全くの田舎風景を見せてくれます。しかし、その道に沿って流れている川の写真を撮るために車を止めて河原を歩いていたら、なんとその道沿いにペットボトルのゴミが足の踏み場もないほどに捨てられていたのです。のどかで美しい田舎なのに、それと対照的な残念な光景を見て、悔しいやら、悲しいやらで、いたたまれない気持ちになりました。
 ここで生まれ育った人が、自分の故郷へ帰ってきても、それが自分の覚えている故郷だとは、思えないのではないかと思いました。
 
 ところで今日は、ある方とお話をして、その方が日本や世界のあちこちが汚染や自然災害で、人の住める所ではなくなってしまっていると嘆いていました。本当に安全な場所というのは、地球上でますます少なくなってきているというのは、やはり事実だと思います。
 聖書には、終わりの時のしるしとして、地震があり、疫病がはや り、不法がはびこり、飢饉があるというイエス様の言葉が記されています(マタイ24章)。 さらに聖書には、地上の世界は、ますます困難な時期を迎えるようになり、「かつてなく今後もないような大艱難」があると記されています。 その先のことを知らないなら、まさに絶望的です。しかし、感謝することに、それで終わりではないのです。
 イエス様は、私たちを天のふるさとに連れていって下さるために、もう一度、この世界に帰ってきて下さることを話しておられます。
 
そのとき、人の子(イエス様)のしるしが天に現れるであろう。 またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そ して力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天の はてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。(マタイ二四章三十~三一節)
 
 私たちは、それから天にあげられるのです。これは復活の時のことです。
 
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響く うちに、合図の声で、天から下ってこられ る。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会 い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(第一テサロニケ四章十六、十七節)
 
 ヘブル十一章には「私たちのふるさとは天にあり、さらによい天にあるふるさと」と書いてあります。
 
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受 けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわす ことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。し かし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。 だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル十一章十三~十六節)
 
 そう、私たちの本当の故郷、それは天にあるのです。私たちは、 それを楽しみに待ち望んでいることができます。
 この地上の故郷は私たちの故郷ではありません。
 この地上では私たちは旅人に過ぎず、この地上は通り過ぎる場所 に過ぎないのです。その道すがら、私たちは、天の旅人として、主の愛の使命を果たしながら旅をしているのです。
 この旅路を主は、知恵をもって計画しておられ、出会うべき人、 助ける人、また遭遇すべき状況などを備えておられるのです。
 
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリス ト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 (エペソ二章十節)
 
 どんな状況下に置かれても、主に信頼して、主が自分に望んでお られることを精一杯果たすこと、主が天に私たちを連れて行かれる時まで、あるいは主が天から雲に乗って帰ってこられる時まで・・・。
どうか私たちが、天の故郷を望みつつ、歩むことができますように。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからである。(第二コリント四章十八節)

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷であった、だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 
彼は、揺るがぬ土台に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは神 である。(ヘブル十一章十六節と十節)

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