祈りの武器

j
2023年1月12日

「ひとしずく」ーーひと昔編

妻は血圧の問題を抱え、特に朝方の血圧が高くなります。しかし、最近、日本の友人や世界中の宣教師の仲間に祈ってもらってから、血圧が上がらなくなったと言っています。これは、いかに祈りに力があるか、また、自分一人の力ではなく、多くの人の団結した祈りの力が、物事を変え状況を変えるかの証しであると思います。
祈りは素晴らしいです。祈りは奇跡を起こします。私たちは日常生活の中で、もっとこの祈り を取り入れるべきだと思います。
ところで、祈りをした際、ただ祈ってあとは主に信頼するというだけの時もあれば、祈ったことのために自分のなすべき分を果たすべき時もあります。祈りがなかなか聞かれないと思っている人がいるとしたら、それはもしかしたら、ただ祈るだけで、主が示される自分のするべきことをしていないからなのかも知れません。
祈ると主は物事や状況を変え、人の思いまでも変えてくださいますが、私たちは、その答えを 受け取るために、時には、ある場所に行き、信仰の手を伸ばして主が与えようとしておられるものを受け取る必要があります。私たちには私たちのすべきことを果たす必要があるのです。自分の求めるものを主に要求するけれど、その祈りに対する答えとしての主の導きの下に行動する ことをしないなら、せっかく主が与えたいと思っているものを受け取れずに終わってしまうのではないでしょうか?

 先日、友人から頼まれた品物を、友人の倉庫から取り出しに行ったことがありました。それは重く、一人で取り出すのも大変 な上、色々な荷物がその前に立ちはだかっていたので、それが一層困難なものにしていました。
私はこれは一人ではとても無理だと思い、主に助けて頂くために祈ることにしました。「主 よ、どうしたら良いでしょう?どうか助けて下さい」と。 すると主は、近くに住んでいる息子に連絡することを示されました。それで早速息子に連絡すると、「わかった。今すぐに行く」と言って十分足らずで駆けつけてくれ、無事にその品物を倉庫から取り出し車に積むことができたのでした。
呼んだらすぐにやってきて助けてくれた息子に、私は「あー、天使みたいだね」と言いましたが、まさに主は私の祈りに答えて、天使ならぬ息子を助け手として送ってくださったのでした。
ところで、もし私が祈っても、示された主の導きに従わずに、息子に連絡をしなければ、わたしは主が差し出そうとしておられた助けを受けることができなかったわけです。それは私が祝福を逃すばかりか、せっかく答えを下さった主を侮辱していることにもならないでしょうか?

 昨日紹介した、金山医師は、ある時見たこんな夢の話をしていました。天国にあるイエス様の机の上には、たくさんの書類の ようなものが山積みにされていたそうです。これは何かと尋ねると、果たされていないイエス様の御心だということでした。
なぜ果たされていないかというと、それは私たちが祈り求めないから、また祈り求めてもその祈りの答えを受け取るために聖霊の導きに従わないからだというのです。
私たちの目の前には、なされなければならない主の御心がたくさんあります。自分のことを始め、家族や友人の必要やいやしのため、福音を宣べ伝えることや仕事のこと、また日々起こる様々な問題など。それに加えて、日本の様々な深刻な問題や世界の問題など、数え上げたらきりがないくらいです。
しかし、それが満たされ、いやされ、解決されるなら、どんなに素晴らしいことでしょう?私たちは祈らないことで、また祈ってもそれを受け取るための自分の分を果たさないことで、主が与えようとされている祝福をどれほど逃してしまっているか、よく考えてみる必要があるのではないかと思います。
 主は、私たちの信仰に喜んで応えられます。私たちがこの祈りの武器をもっと使い、主の栄光がこの闇に輝くことができるよ うに、お互いのためにもっと祈り合おうではありませんか。

  あなたがたは、わたしを尋ね求めてわたしに会う。もし、あなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば。(エレミヤ二九章十三節)

もしあなたがたの内のふたりが、どんな願いごとについても地上 で心を合わせるなら、天にいますわたしの父は、それをかなえて下さるであろう。
 ふたりまたは三人がわたしの名によって集まっているところに は、わたしもその中にいるのである。(マタイ十八章十九-二十節)

だからわたしたちは、憐れみを受け、また恵みにあずかって、時 機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル四章十六節)

他の投稿もチェック

力は主にある

力は主にある 人生は旅。クリスチャンにとっては、巡礼の旅です。どこに向かっているかというと天にあるふるさとです。主からの任務を果たしつつ歩んでいく荒野の旅です。  信者が聖書の真理に立って、信仰に生きようとする際、この世はそれに対してあらゆる面で立ちはだかってきますので、荒野というのがふさわしいです。荒野は、供給においても、保護においても、また子供を世話し、家族を守るにも、ただ神に頼るしかない困難な場所です。しかし神がおられるなら、そこは祝福の場所となります。...

荒野で…

荒野で… 荒野にいるから、大いなる都がどんなものか見えてくる レールから外れて、はじめてレールの上をがむしゃらに走ることがどんなものか見えてくる 自国から離れて、はじめて自国が見えてくる 村八分にされて、はじめてその村が見えてくる 辱めを負って、はじめてあざける者の座に座らぬ者の幸いを知る 悪霊に悩まされて、はじめて解放の喜びを知る イエスは、 神であられることを捨てて、肉をまとわれた神だから...

悪の霊に対する戦い(エペソ6章12節)

悪の霊に対する戦い(エペソ6章12節)  私たちは、霊の戦いに従事していることになっています。しかし、霊の戦いであるのに、霊の武器を十分ふるっていない時があると思います。主は霊の戦いを通して、その戦いをどのように戦うかを教えておられるのだと思います。戦い方は、戦うことを重ねてしか練達しません。  イエスがゲラサの地で会われた男の人、彼は大勢の悪霊につかれていました。...