真に愛情深い人は、自分のしたことで恩に着せたりはしない。
自分の相手に対する善行は隠されている。
イエス様はそのように私たちを愛してくださっている。
創造主であり、あがない主である主イエス様は、自分のしたことを誇らず、その愛を押し付けない。
無頓着で無礼な者に無視されようと、またその愛に対して侮辱を返されようと
その魂のあがないのために祈り続けてくださる。
そして最後には、自分の胸に帰ってくるのを、忍耐を持って待ち続けてくださる。
毎日、毎時、注ぎ続けている慰めと保護と導きに気づかずにいる者のためにも
その熱い愛の炎を燃やし続ける。一つになる時まで。
私たちの救いのためなら、蔑まれることも気にされず、痛めつけられることも厭わない。
名誉も友人も、最後の衣も、そして命さえも、取り去ろうとする者に身を委ねる。
イエス様は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来られた。
私たちが命を得るためのパンとして、御自分の命を差し出された。
信じる私たちの内に主の命が脈打つため。
私たちが主の喜びに満ちあふれるため。
主は、御自分のうちにある全てを私たちと分かち合ってくださる。
主の私たちに対する愛は、永遠であり無限。
だから主の愛を信じる者にとって失望はない。
この希望は決して虚しく終わらない。
主の私たちへの愛は、世の全てのものが過ぎ去っても、決して変わることはなく、
ますます深くなるばかり。
それが私たちの神・・・。
あなたが引き寄せてくださるのでなければ、
あなたが神の御子であることがわかりませんでした。
あなたが目を開いて下さらなければ、
あなたこそ、永遠の命を私たちにもたらすために
神様から使わされたキリストであるということがわからないのです。
どうか、私たちの霊の目を開いてください。
あなたの素晴らしさを日々見ることができるように。
私たちの口を開いてください。
あなたの栄光を高らかに歌うことができるように。
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。(ヨハネ十四章十七節)
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ五三章一~十二節)