「ひとしずく」ーーひと昔編
「神はそのひとりごを賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三章十六節)
これは、聖書全体を要約しているとも言える聖句であると教えてもらったことがあります。神が私たちをどれほど愛して下さっておられるか、そして御自分のひとり子、イエス様をこの世に送られたその理由、また、永遠の命を得る条件がこの短い聖句に凝縮され語られていると。ではこの聖句を詳しく見て行きましょう。
「神はそのひとりごを賜ったほどにこの世を愛してくださった。」
「父とわたしとは一つである」(ヨハネ十章三十節)とイエス様は語っています。神様はご自身と一体であったひとり子、イエス様を、人間の姿にさせて、この世にお与えになりました。その結果どのようになるかを父なる神様もひとりごであるイエス様もご存知でしたが、あえてそうされました。
イエス様はこう語られました「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。(ヨハネ十章十七、十八節)
「ひとりごを賜った」とは、十字架で殺されるためにこの世に与えられたということです。ここから、一切の犠牲を惜しまない、神様の深く広い愛がわかります。
「この世を愛してくださった」とありますが、「この世」は、どう見ても罪で満ちていて、どうしようもない状態です。神様が「この」状態の「世」を造ったのではないことは確かです。初め、神様が世界を造られた時、それは善かったと記されています。この世は、「悪い思いを心に抱く」私たち一人一人が造り上げて しまったものであり、また私たち自身のことなのです。
聖なる神様は「罪」を愛しておられるはずはありません。しかし神様は、そんな罪にまみれた弱くみじめな罪人は愛しておられるのです。私たちがどんなに汚れ、愛されるに値しない存在に思えても、神は、御自分のひとりごをお与えになるほどに、愛して下さるのです。そして私たち一人一人がどんな思いを抱いているかも、すべて御存知です。
生きるのが辛くて、自ら命を絶ってしまおうと思い悩んでいる人、また誰からも愛されず、この世に愛などない、愛の神などいない、と孤独な涙を流して泣いている人、そしてどんなに頑張っても報われないことでがっかりしている人など、その他すべての人を、神様は見ておられることでしょう。
きっと神様は、これらの人間たちをご覧になって、心が張り裂けんばかりに感じ、悲しくて涙を流していると私は思います。そして、罪に汚れた魂、また悲しみに沈み、苦悶している魂を救い出すためなら、御自分の身も心も引き裂かれてもかまわないと思われたのです。
私たちの心の中にある、自分中心というどうしょうもない罪、自分さえよければ周りはどうだって構わないという気持ちが、こうした社会を造り上げてしまいました。しかしイエス様は、そんな世の中であえぐ私たちを、裁くためではなく、救い出すためにこの世に来て下さり、命を差し出されたのです。それは父なる神様にとっても、大切なひとり息子の命が、冷酷な罪人らの手にかかって奪われるという悲痛な体験でしたが、それを忍ばれたのです。ただ、私たちへの愛ゆえに・・・。
主イエス様は、この世は裁きに値していたのに、「世をさばくためではなく、この世を救うため」に来られたのでした(ヨハネ十二章四七節 )。
神様が差し出される愛、ひとりごの命という形で差し出される聖い愛を、受け入れる、あるいは信じるということだけが、さばかれずに、永遠の命にあずかる(救われる)ために私達に求められていることです。
御子を信じ受け入れるということは、ある人にとっては、難しいことになってしまいます。自分が良くやっているのに、どうして救われる必要があるのかと思う人たちです。そして、自分はこの社会で成功しているのだから、今更、神様がどう思っておられるかや、隣人を自分と同じように愛するようにと言っているイエス様を神様として認めてしまうと、自分の人生に面倒でやっかいなことを招き入れることになってしまうと思うのです。自分が自分の人生のボスでありたい人は、かえって福音を聞かないで生きていくと楽と思えることでしょう。愛の神様は、人間に、神様の差し出す愛の贈り物を拒む選択をすることも許されます。私達を拘束して、神様の望んだ通りに、行動しないと稲妻で打たれるようなことをされないのです。
そして、特に権威と富、自らの善行や能力を誇り、それらに依存してしまっている人たちにとっては、厩(うまや)で生まれ、飼い葉桶に寝かされた、 か弱く小さな赤ん坊の姿をしてやって来られた、貧しい大工のイエス様を、いくつかの奇跡の業を見せてもらったり、教えを聞かせてもらったとしても、救い主だと信じるようになるのは、とても難しいことでした。イエス様は、偉大なる救世主を待ちこがれていた彼らにとって、世に登場した彼の姿と装いはあまりにも貧相だったのです。ある人たちにとっては、イエス様は期待はずれの救い主だったのです。しかしそれは全て神様の知恵によるものでした。
「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。」(ヨハネ五章四四節)
イエス様は、この世のしきたりや価値観で、また人から褒められることで、自分たちの利己主義を覆い隠し正当化しているような人たちの偽善を、あらゆる角度から暴きました。そして、偽善を暴かれた当時の権威者達は、ついにがまんできず、民衆を煽動して、イエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。結局そのような人の罪深ささえも神様は使って、そのひとり子が全人類の罪のために犠牲となって死ぬという預言と神様の御計画を成就させたのでした。
しかし、自分がわがままで、自己中心で、愛のない者だとわかっている者たちは、受け入れてもらうには、神様からの憐れみが必要であるということもわかっていました。だからイエス様がやって来られて、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ五章三二節)と語られた時、イエス様の憐れみと赦しの中に、神様の聖さと偉大な愛と権威を見て、彼のもとにやってきたのです。
御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得ることを望まれている神。そのために御自分の一番大切なひとりごをも惜しまず賜って・・・。
私達は、神様からのそんな尊い愛の賜物を頂きました。そして私達は、日々、いつも、永遠に続くその深く神聖な愛と赦しによって、包んで頂いているのです。イエス・キリストを通して表された神様の愛を信じて、感謝と賛美とをもって、今日一日を生きることができますように。