「ひとしずく」--ひと昔編
秋田に二週間ぶりに帰ってきました。ここは都会とは全く異なった世界です。
美しい田舎の風景が広がっています。しかし、畑を見ると、耕したり種を蒔いたりなどの農作業が待っていることが気になりますし、次の冬に備えて、薪の材料となる廃材を切断したり、あちこち片付けをしなければならないことなど、いろいろとやらなければならないことが山積みになっているのを思い出すのです。
あー大変だ…また東京に行くまでの二週間の間に、こんなに多くのことをどうやってやりこなせるかな…という思いに駆られます。
しかし、今朝、この田舎道を歩きながら、周りの山の景色や耕された畑、またきちんと積み上げられた薪を眺めていたら、いつの間にか、それらの作業のために、自分の内にやる気が沸き上がってくるのを感じました。
仕方ないからやるか、というのではなく、むずむず、わくわくしてくる感情です。それらを重荷としてやるのではなく、楽しめば良いのだと思ったのです。折角、神様はこうして土を耕し、野菜を作る機会を与えてくださったのですから、大変かもしれないけれど、良い野菜を分け合うことができると思えば、インスピレーションが湧いてこないわけはないのです。神様はきっと、それらの作業を祝福として、私たちに与えてくださったのでしょう。これからその作業を始めようとする私に、主はそのためのやる気と塗油を与えてくださろうとしているのがわかりました。
こうした体験は、今まで何度も経験してきました。それは主の言葉を証ししたり、人の前でスピーチしたり、何かを制作する時など、どんなことにも通じると思いました。最終的に私たちは、その場に直面するまでは、恵みも塗油も得ることはありません。その時になって始めて、私たちは主の助けを受けるのであって、その前にではありません。
私は東京に住んでいた時に、畑を耕すための主からの霊感や塗油を必要とはしていませんでした。しかし実家の田舎に戻り、畑仕事をすることになると、そのための塗油と知恵を必要とします。逆に、私がクラスを導く為の塗油と知恵は、農作業しようとしている時は必要ないのです。
主はいつも時に応じた助けを与えてくださいます。だから、こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようと心配するには及びません。
「あすのことを思いわずらうな」と主は私たちに命じておられます。私たちは、明日のことを思いわずらうのではなく、ただ自分にできる分をしつつ、あとは主に信頼していれば良いのです。どうかそのための信仰を主が与えてくださいますように。
あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ六章三三節)
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(新改訳3版 ヘブル四章十六節)
ですから、躊躇せず、思い切って、神の王座に近づいてあわれみを請い、必要な時に必ず与えられる恵みを、いただこうではありませんか。」(リビングバイブル ヘブル四章十六節)