「ひとしずく」ーーひと昔編
これは、私への主の呼びかけであると思います。もしかしたら、あなたのためでもあるかもしれません。
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助けを必要としている人に手を差し伸べるために、そんなにも低くそんなにも汚れて、人から自分が誤解を受け、見捨てられるほどになっても構わないというほどに、私たちは、愛を示しているでしょうか?
イエス様はそうされました。イエス様は私たちと共に住まわれ、罪人の中の罪人の低いところまで降りてこられ、取税人、娼婦、酒飲みなどの、社会に捨てられた人の友となられました。
そして今も、イエス様はこの地上におられるならば、同じことをされていると思います。
主は、次のたとえ話を語られました。
「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれをみつけたなら、良く聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さいもののひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイ十八章十二~十四節)
イエス様は、昨日も、今日もいつまでも変わることのない方です。今も、あの時と同じように、主は、見捨てられ、のけ者とされ、希望を失っている人のところに出かけて共におられることでしょう。そして、イエス様は私たちにも、同じことをするように招いておられるのではないかと思います。
「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすればわたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。」(ヨハネ12章26節)
私たちは、できることならイエス様に仕えたいと思っています。しかし、イエス様には気に入られたいけれども、自分の評判や、地位、持ち物は失いたくないと思っているのではないでしょうか。
結局、私たちは、自分以上にイエス様を愛せるほどの、信仰と愛がなく、自分自身を保持する選択をしてしまう弱さを持っているのです。ちょうど、ペテロがイエス様を愛していたし、決してイエス様を裏切ろうなどと思ってもいなかったけれど、結局、自分の身を守るために、イエス様を三度否定した時のように。
彼は、自分自身を守りたかったし、イエス様のように、捕らえられ処刑されたくはなかったのです。(マタイ二六章六九~七五節参照)
もし、私たちがイエス様を近くに感じていないのなら、それは、イエス様が、ついてきなさいと言われたのに、ついていかなかったからなのかもしれません。イエス様の後に従わず、自分は、安楽で快適な囲いの中で、静かにのんびり生きているのかもしれません。
しかし、もしイエス様に近く歩み、いつも一緒にいたいと思うなら、寂しい場所に、また一人傷を負っている人のところに、イエス様が出かけられようとする時に、「わたしも連れて行ってください」とお願いしたらいいのかもしれません。
イエス様は「わたしについて来なさい」と言われることでしょう。
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あなたに与えられている
すべてのもの
これをもってあれをしよう
それをしようと思っている
すべてのものに気をつけなさい
それらは、あなたが
神の栄光を顕わすために
与えられたもの
それらは、自分のために使うものでも
貯めておくためのものでもない
それがあなたの手の中で朽ちる時
あなたはきっと後悔することでしょう
すべてのものは神から
あなたに任せられた
それを限られた時間の内に
あなたはどう使いますか。
終わりの時のベルが鳴る時
あなたの行い、善意が測られる時
あなたの魂は神様に
「これがわたしのできる全てでした」
と言い開きができるでしょうか。
覚えていてください
全てのことについて
やがて決算の時が、やってくるということを。
あなたに任せられたすべてのものを
あなたはどのように用いたかについて
それら全てを与えられた方に、説明をする時がやってきます。
あなたは…
永遠の命のため
人の心を癒すため
失意の人に希望を与えるため
弱り果てた魂に力を与えるため
それらを用いていますか?
あなたに与えられた
時間、知識、財産、地位、能力、機会、その全てを…
この世もあなたの体も過ぎ去ります。
過ぎ去ることのない永遠のもののために、あなたは何をしますか。