「ひとしずく」ーーひと昔編
今、私は、聖書を信じることができず、イエス様が実際に存在していたことさえ信じることに疑いを持っている人と、文通をしています。
数々の疑問が並べられてあって、どうして信じられないかというその人からの手紙を読みながら、つくづく思いまし た。
全能者なる主イエスがすぐそばにおられて、助けて下さり、これからも助けて下さると信じることができるということは、何という特権、何という祝福、何という賜物なのだろうと。
イエス様を信じる前の私は、暗黒と疑いと、不満足と恐れと不安の迷路にいました。神を信じられなかったというより、神を知らなかったのです。しかし、イエス様に出会い、信じることによって、主は、約束通り、恵みといつくしみで満たされた小道へと導いて下さいました。やっと暗闇から光の中に出てきたような、また束縛から解放されたようなそんな感じでした。
しかし、イエス様を信じるようになったからといって、もう戦いがないというわけではありませんし、全てがスムーズに運ぶということでもありません。もしかしたら信仰の無かった時よりも、波乱に満ちた人生を歩んでいるかもしれません。少なくとも、今までは、外から見て、平穏無事といった生活とは、 かなりかけ離れた生活をしてきました。田舎で過ごしていても、どういうわけか、絶えずチャレンジがつきまといます。しかし、どんな変化も、私の心の中の平和と幸福を奪うことはありませんでした。いつも必ず、イエス様が共にいて下さったからです。
以下は信仰についての書(「わたしは奇跡を信じる―21人の驚異的いやしの実例」 キャスリン・クールマン著 「生ける水の川」発行)の1頁です。主イエスに感謝です!
「弟子たちと主がガリラヤ湖上にいたのは、天気のよい日でした。穏やかな湖は波も立たず、空には一片の雲さえなかったのが、突如、猛烈な暴風 雨となりました。風は狂ったように吹きつけ、小舟はまさに転覆しそうになったため弟子たちは身の危険を感じました。
遂に思いあまった彼らは眠っていたキリストを起こすと、主はすこしも騒がず、ただ一言静かにたずねました。
「あなたがたの信仰はどこにあるのです」(ルカ八章二八節)
信仰はどこに行ってしまったのか。舟に乗り込む前に岸に置き忘れたのか。小舟のただよっていた湖の底深く沈んでしまったのか、それとも、あ のあらしが、さらって行ったのでしょうか。
弟子たちの信仰は、舟の「とも」のところで休んでいたのでした。その信仰は初めからずっと彼らと共にあって、片時も離れることがありませんでした。主が、彼らの信仰だったのですが、あらしという現実は見分けられても、主の臨在という事実を忘れた点で彼らは間違っていました。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われた時イエスの意味されたのが、正にこれです。そうするとあなたの信仰は、すなわち主ということに他なりません。
私たちは、自分の境遇や抱えている問題とか、自己の弱さや自分のからだにある病気などに目をとめたりすると、負けてしまいます。この世の中 で、自分自身の心に焦点を合せるくらい確実に敗北の道につながるものはありません。あらしは私たちの小舟をひっくり返しそうになり、それがはっきり目に見えるようであっても、勝利に至る私たちの信仰が自分の手や足よりも身近にあるという事実は、一向に変わらないのです。
だれであれ、一点たりとも負ける必要はなく、信仰が欠ける必要もありません。・・・イエスに目をとめるのです。主があなたの信仰であり、私たちの信仰です。さがし求めなくてはならぬのは信仰ではなく、イエスです。あらゆる善きものと全き賜物をお与えになる方が、わたしたちの信仰の創始者であり、完成者なのです。