八月二八日 蛙 (二〇一一年 ひとしずく81)...

種たちの物語

八月二七日 種たちの物語 (二〇一一年 ひとしずく七二) 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ十二章二四節)  最近畑に種を蒔きました。ちょっと種たちのことを想像してみてください。...

新たな力を求めて

八月二六日 新たな力を求めて (二〇一四年夏 ひとしずく一六二〇) 主は時に応じて力を与えてくださいます。 一つの仕事、一つの区切りを終えたら、休むことが大切ですが、休むことには、ただ体を休ませるということ以上の意義があると思います。何かを成し終えた後、主の御許に行くことは、主に感謝し、主を褒め称えること、また、新しい仕事、奉仕の前に、主を認め、全ては主のため、主の力で主の愛に満たされて、ということを主の霊との交わりの内に確認する時であると思います。...

生きている間に

八月二五日 生きている間に (二〇一四年夏 ひとしずく一六一九) 肉体から離れた魂は 私たちに聞こえる声で語りかけることができない。 彼は今、私たちに何を語りたいのだろう? 写真の中の彼はほほ笑んでいる。 どうしようもない肉体の疲れや苦悩から解放されて 今は本当に、この写真のように、心から喜んでいるのだろう。 病院を訪問したのが彼との最後の会話だった。 私が帰る時、寝巻き姿で病院から出て、わざわざ私を見送ってくれた。 「今度、秋田に来てください」 私がそう言うと、彼は嬉しそうにほほ笑んでいた。 来月の8月にと思っていたけれど...

もし

八月二四日 もし (二〇一一年 ひとしずく七三) イエス様にこう聞かれたら、わたしはどう答えるだろう。「もし、わたしがあなたに、地上での人生をもう一度与えることができるとしたら、どんな人生にしてほしいかい? 酒癖の悪いお父さではなく、家庭内暴力も何もなくて、裕福な家庭で育てられたいかい?」 平和で円満な家庭で育てられるのは、さぞすばらしいことだろう。それこそ、わたしが子供のころに夢見てきたことだ。父が酒に酔っている時は、いつ母やわたしに茶碗を投げつけてくるかと、びくびくしていたものだ。...

「すべて」

八月二三日 「すべて」 (二〇一四年夏 ひとしずく一六一七) 口語訳の詩編一四五篇には、「すべて」という言葉が、九回出てきます。 主はすべての者に恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。(九節) 主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。(十四節) あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます。主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。(十六~十八節)など。...

悪に悩まされていた義人ロト

八月二二日 悪に悩まされていた義人ロト (二〇一四年夏 ひとしずく一六一五) (創世記13章全部, 18章16節〜19章38節 参照)  神様は、その邪悪さゆえにソドムとゴモラの地を滅ぼされようとしましたが、アブラハムのとりなしのゆえにロトとその娘達は救い出されました。  低地に広がるソドムの豊かさに目を奪われ、その地に住むことを選んだロトではありましたが、その地は邪悪に満ちていました。しかし、そのことが分かっても、ロト達はそこを立ち去ろうとはしませんでした。その場所に対する執着が強かったからです。...

天への進級

八月二一日 天への進級 (二〇一四年夏 ひとしずく一六一四) 最近、親しかった人たちが、この世での旅路を終え、天のふるさとへ帰られました。人の命がいかに儚いかを思って悲しくな りますが、 私たちの行くべき先が素晴らしい天国であることを思うと、希望が与えられます。主は素晴らしい約束をいくつもしてくださっています。   兄弟たち よ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。...

霊に生きる

八月二十日 霊に生きる (二〇一二年八月 ひとしずく九一五) 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記二章七節) 神の命が吹き入れられて、人は、生きたものとなった。つまり、人は神の命の息が吹き込まれるまでは、生きたものとなることはなかった。神様は無から有を造られる方。 何もないところに星と太陽と月を造りそれを天体にかけられた。 そして地球を美しく造られ、生き物をそこに棲まわせた。神様は、何でもおできになる。 そうでなければ神様ではない。神様には、時間も原料も必要ない。...

偉人たちに囲まれて

八月十九日 偉人たちに囲まれて (二〇一四年夏 ひとしずく一六一〇)  ルカの福音書を読んでいると、弟子たちが何度も、誰が偉いかということで議論していたことがわかります。ルカ九章には、 次のようにあります。 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかとい うことで、議論がはじまった。(ルカ九章四六節) また同じルカの福音書の二二章には、次のようにあります。 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言っ て、争論が彼らの間に、起った。(ルカ二二章二四節)...