イエス様を受け入れるか否かの選択

ひとしずく819-イエス様を受け入れるか否かの選択 バイブルクラスに参加していた一人が、イエス様に出会って救われる前と、救われた後では、色々な事に対する見方が違うと話していました。たとえば、クリスチャン作家の映画や小説は、救われる前は、大変退屈なものだったけれども、救われてからは同じものでも、全く違った意味深いものになったということでした。 私もその通りだと思いながら「イエス様を受け入れるか否かの選択」がもたらす大きな違いについて考えたのでした。...

光を灯して

ひとしずく811 光を灯して <ある夜遅く山道を運転していた時のこと:> …山道にさしかかった時には、もう真っ暗になっていました。他に通る車もなく、その道には全く街灯がありません。山のカーブ道が続き、ある所は片側が谷になっている所もあり、しかもガードレールもない部分もあるので、一歩間違えたら、それこそ命取りです。 この暗闇の危険な道で、唯一頼りになるのは車のヘッドライトです。その光が、道の中央線や路側帯のラインやガードレールを照らし出してくれ、行くべき道を導いてくれるのです。...

神様の愛はいつもすぐそばに

ひとしず く815-神様の愛はいつもすぐそばに他の全ての人が捨てても決して捨てることはしない周りの人たちが自分のことをどう思っていようと一向にかまいはしないみんなの前でも、どこでも「私はあなたが大好き!」と叫ぶただ、私がいることを喜んでくれる私の顔を見ただけでその喜びを体いっぱいに表してくれる一生、最後まで共にいてくれるいい相手が見つかったからおさらば、なんてことは決してない私が思いやりに欠けたことをしてしまっても決して恨みに思わない 「あなた が大好き!あなたが一番!」って言ってくれるそう、いつも...

イエス様の呼び名

ひとしずく813-イエス様の呼び名  「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められる・・・」(ローマ 1:20) 自然を見ていると、神様の素晴らしい性質が伺えます。 岩は、どっしりしていて、嵐の時にしがみつくことのできる、神様の堅固さ、永遠に変わらぬ真実の象徴。 「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」(詩篇 62:3)  火は、不純物を取り除き、あらゆるものを清めてくれる、神様の聖さと情熱の象徴。...

すべてのことには時がある

ひとしずく812-すべてのことには時がある (2012年配信)  すべてのことには時がある・・・  私たちは一度に、全てのことはできません。やりたい事、しなくてはいけないこと、したらいいこと、それは数多くあって も、集中できるのは 一度に一つです。しかし、私たちをそのように造られたのは主です。したがって、多くのことができなくても、もし、主と共にあるなら、その 一つ一つを主は美 しいものにしてくださるのだと思います。  ...

「イエス様」抜きの成功?

ひとしずく808−「イエス様」抜きの成功?   昨日、ある友人が「聖書に隠された成功法則」という本から一つ引用句を送ってくれました。それは、「喜んでいること」を如何に神様が望んでおられるかということ、またそれが人間関係を改善することにどれほど役立つかということが書かれていました。 考えてみると、人間関係や人生における成功のために利用できる聖書からの法則は数多くあります。たとえば・・・ *見えないものを見えるかのようにして歩む「信仰の法則」<ヘブル11:27>...

主が共におられる

ひとしずく799-主が共におられる 時々、試練の最中にあると、主は共にいてくださらないように感じることがありませんか?そして、主が共にいてくださるのなら、こんな災難や試練が起こるわけがないし、起こったとしてもすぐに助け出してくださるはずだと、不平と疑いを抱いてしまうことが・・・。 旧約聖書にあるヨセフの話はとても興味深いものです。...

義に飢え渇く者

ひとしずく1559-義に飢え渇く者 (2014年配信) 最近、Dさんに十何年かぶりに再会しました。今、彼は単身赴任 で、福島の相馬で働いています。以前、私たちの聖書クラスに来ていましたが、彼が九州に引っ越しして以来、会う機会はありませんでした。 しかし、彼が東北に来て、先月から月に 一回、私が那須にいる時に、聖書を一緒に学ぶために、彼は公休日前の日に一泊の泊りがけで相馬から那須にやってきます。仕事が終わってか ら車で来るので、那須に到着するのが夜の9時...

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...