Ⅱ. 神の位格:三位一体<12>
神についての研究
ロバート・D・ルギンビル博士著
C. 旧約聖書における三位一体<3>
a) テオファニーとクリストファニーの定義 : 「テオファニー」と「クリストファニー」という言葉は、それぞれ「神の顕現<見える姿で現れる>」と「キリストの顕現」を意味します。それぞれの言葉の後半部分は、ギリシャ語の語源「ファン(phan)」、「現れる」から派生しています(この語源から「フェノメノン(phenomenon 現象)」という言葉も生まれています)。このセクションでは、少なくとも聖書の用語では、ここで本当に考慮すべき出来事のカテゴリーはキリストの出現だけであると論じます。なぜなら、旧約聖書における神の顕現はすべてキリストの顕現であるからです。
まず最初に明確にしておかなければならないのは、私たちが「キリストの顕現(クリストファニー)」と言う場合、それは決して、私たちの主イエス・キリストが真の人間として文字通り、物理的に現れたことを指しているのではないということです。キリストは、受肉によって真の人間性をお取りになって以来、一時的なキリストの顕現の形で再び現れたことはありません。旧約聖書における神のすべての出現は、実際にはキリストの出現であるという立場は、この地上における明らかに肉体的な出現以外の、父なる神の他の種類の現れ、例えば夢や幻(ダニエルの「日の老いたる者」の幻が最たる例: ダニエル7章13-14節)の可能性も認めています[1]。
b) 御父は人の目には見えないという性質: 天国に行くまで、私たちは御父を見ることができません。 天使たちは「御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである」(マタイ18章10節)。 しかし、御父は私たちの天の御父であり(マタイ6章9節, 26節、他)、御父の簒奪者となるべきサタンと、御父の摂政と定められたキリストとの地上の争いがまだ激化している限り、御父は御自身の威厳のために天にとどまり、御自分のしもべを通して御心を語り、働かれます。最終的かつ究極的な勝利まで、そして宇宙が完全に浄化された後にのみ、御父は新しい地上に来られて、私たちと共に永遠に住まわれるのです(黙示録21章1-3節)[2]。その時まで、御父は、御自分の代表者である御子イエス・キリストを通して行動し、語られるものの、人間の目には見えないままです。
また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。(出エジプト33章20節)
イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。 (イザヤ45章15節)
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 (ヨハネ1章18節)
神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。(ヨハネ6章46節)
神(御父)はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。 (第一テモテ6章16節)
神を見た者は、まだひとりもいない。(第一ヨハネ4章12節)
c) キリストから離れては父なる神に近づくことはできない: もし人類が滅びることなく父なる神の栄光を見ることができたとしたら、少なくとも、その時点から人間の自由意志の問題は深刻に損なわれることになります。 神の偉大さと威厳に直面すれば、神の存在を否定することは不可能になるだけでなく、ほとんどの人は自分の意志に反してでも、(真に自由な選択からではなく)恐怖のあまり、神と神の意志に従わざるを得なくなると思われます[3]。人間の自由意志を守るという原則とともに、父なる神へのアクセスという問題は、なぜ父が現世で私たちに見えないままなのかを説明するのにも役立ちます。
この研究で先に述べたように、父は御自身の創造物の中に遍在しておられますが、御自身の被造物に対して目に見える存在として、聖書では常に天にいますと表現されています(例えば、マタイ6章9節, 26節)。 明らかに、私たちが肉体をもって生きている限り、「神を求める」ために天に行くことはできません(申命記30章12-13節; ローマ10章6節)。御父は、御座が天にあるという事実(黙示録4章2節; ヘブル4章16節)によって、私たちには近づけないのです。 御父と私たちを隔てるこの「物理的な」距離は、神と人間との間の霊的な距離を示しています。三位一体の位格である神の権威と聖さを象徴するお方として、義なる御父はご自分を人間の罪から完全に切り離しておられます。事実、罪深い人間が神と対面することは、私たちがその本性からして死に値する存在であることを直ちに悟らせることになります(創世記32章30節):
その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。 (イザヤ6章5節)
私たちは天に行き、御父に弁明することはできませんが、キリスト・イエスは私たちのために天から下ってくださった方です(ヨハネ3章13節)。彼を信じる信仰と私たちのために主が死んで下さったことによって、私たちは今、主の名によって御父に近づくことができるのです。キリストの血(つまり、私たちに代わって十字架上で死なれたこと)によって、キリストは御父と御子を信じる人々との間の敵意の壁を打ち破られました。イエス・キリストは私たちの間に平和をもたらし、その結果、私たちは今、天の御座と御父の御前に入ることを許されたのです。つまり、キリストの犠牲が受け入れられ、私たちがキリストを受け入れることによって、私たちの祈りと願いは御父に聞き届けられ、御父の良いとされる時に私たち自身も天の聖なる所に入ることができるのです:
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神[御父]に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ…。(ローマ5章1-2節前半)
というのは、彼(イエス・キリスト)によって、わたしたち(ユダヤ人と異邦人)両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。(エペソ2章18節)
この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神[御父に]に近づくことができるのである。 (エペソ3章12節)
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 (ヘブル4章16節)
キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 (第一ペテロ3章18節)
御子への信仰によって、私たちは今、御父への完全なアクセス(息子としての地位、交わり、祈りが受け入れられること、御父との永遠のいのち)を持っているという事実は、御子が私たちのために来られて死なれる前は、そのようなアクセスは少なくとも制限されていたことを示しています。私たちのために主が犠牲を捧げられた後に、御父が神殿の幕を裂かれたのは、主の死によって、それまで私たちを御父から隔てていた障壁(すなわち、私たちの罪)が取り除かれたことを劇的に示しています(ルカ23章45節)。今、私たちは祈りによって御父に近づくことができますが、地上の肉体にとどまっている限り、まだ天の御前に入ることはできません。十字架以前は、罪深い人間にとって御父はさらに近づきがたい存在でした。従って、旧約聖書に出てくる神の顕現の例が、実際に御父が現れたものだとしたら、それは驚くべきことです。 新約聖書において御父が御子を通して御自身を知らせられたように(ヘブル1章1-2節)、旧約聖書においても御父の出現はこの御子によって、つまりキリストの顕現によって媒介された可能性の方がはるかに高いのです。
[1] ダニエルはこの幻の中で、御父と御子を見ました。御父に対して用いられた「日の老いたる者」という独特な称号に注目してください。この称号は、ヘブル語の構文では「日々の起源よりもさらに古い」という意味に解釈することができ、したがって、創世記 1章2節-。この立場は、ダニエル書7章で「人の子」に獣から地を取り戻す任務を委任された御父の役割と完全に一致しています。御父に関する最も重要な二つの記録された幻、ダニエル書7章と黙示録4-5章は、どちらも、御子が世界の新しい支配者としてその地位に就くよう委任される場面を描いています。
[2] これらの問題についてさらに詳しく知りたい方は、このシリーズの「終末論」である「Part 2B」が掲載されるまで、シリーズ「悪魔の反逆:艱難期の背景」および「来たる大艱難期:黙示録の歴史」をご覧ください。
[3] 出エジプト記第 14 章で、神がパロの心を硬くされたことも同様です。神の力強い奇跡と不思議に直面した人々は、神から特別な許可がなければ、神の威厳に満ちた意志に抵抗することは不可能でした。ましてや、実際に神をその目で見たら、なおさらでしょう。シリーズ「出エジプト記 14章:パロの心を硬くする」をご覧ください。
<13>に続く