神についての研究
ロバート・D・ルギンビル博士著
C. 旧約聖書における三位一体<2>
2. 旧約聖書に予表されたメシヤ: 旧約聖書の常識に反して、イエス・キリストとその犠牲は旧約聖書の至る所に描かれています。 さらに、私たちは新約聖書の聖句から、メシヤの使命と苦難の必要性が旧約聖書の信者たちに十分にはっきりと理解されていたことを知っています(キリストがエマオへの道で説明したように: ルカ24章27節, 第一ペテロ1章10-12節, ヘブル11章26節も参照)。 事実、旧約聖書には、私たちに代わって神の御子が受肉し、死に、苦しみを受けることを予表するために用いられた多種多様な「予型」があります。予型論については、本シリーズの第4部A(キリスト論)で詳しく述べますが、ここで旧約聖書におけるキリストの苦難の描写の二つの主要なカテゴリーについて触れておきましょう:
a) 血の犠牲: アダムとエバのために神が用意された皮の衣(創世記3章21節)から、身代わりの死の描写のためのカインの犠牲よりも優れているアベルの犠牲(創世記4章4節)、私たちの身代わりとなる他者の死を表す血を尊重することを要求するノアの契約(創世記9章4節)、モーセの律法で命じられた一連の複雑ないけにえの儀式全体に至るまで、そのすべてが他者<英語では大文字のOther、すなわち御子を予表>の血による贖いを描写しており (ヘブル9章22節-参照)、神は、旧約聖書のすべての信者に、罪の赦しは軽い問題ではなく、神だけが彼らのためにできることであり、神に信頼する人々のために神が何らかの形でご自身で支払わなければならない過酷で血なまぐさい代価を伴うものであることを明確にするために、血の犠牲という 「教材」を広く用いられたのです。
b) 預言:私たちに代わってキリストが受けた身代わりの苦しみと死は、旧約聖書を通して預言されています:
– 創世記 3章15節: 彼<主>はおまえのかしらを砕き、おまえ[蛇]は彼のかかとを砕くであろう。
– 民数記21章9節: モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
– 詩篇 22篇1節: わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
– イザヤ53章3節: 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
3. 旧約聖書におけるキリストの顕現: 三位一体の表現という点で、旧約聖書と新約聖書の主な違いは、新約聖書ではキリストがはっきりと目に見え、父と区別されているのに対して、旧約聖書では、父と子の区別がしばしば困難であることです[1]。上記の議論にもかかわらず、キリストの受肉に関する正確な詳細が旧約聖書で隠されていたという事実から、旧約聖書に登場する目に見える人物は主に父なる神である、という誤解が、多くのキリスト教界でも広く見られます。新約聖書では、受肉したイエス・キリストが世に見えるようになりますが(キリストの真の栄光だけが遮蔽されています)、旧約聖書では、キリストも父なる神を表しますが、受肉した形ではありません。 さらに、新約聖書では、主が「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10章30節)と言われたとき、あるいは父の言葉を言われたとき(ヨハネ8章28節, 14章24節)、父と子との区別は(この一致とともに)完全に明確で明白です。 しかし、旧約聖書では、神が現れる時、現れるのは一貫して御子ですが、それは御父の代表として、御父の言葉を語るのであって、当時、両者の区別は完全には理解されていませんでしたし、把握されていませんでした(ヨハネ8章26節と28節):
それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。 (ヨハネ12章50節)
[1]聖霊は新約聖書において、特に遣わされた後、より明確に区別されていますが、聖霊の場合の問題は、本質的な違いよりも、程度の問題(つまり、新約聖書においてより明確である)です。旧約聖書においても、聖霊は明確に現れています(例:創世記1章2節, 6章3節;イザヤ63章10節;ゼカリヤ4章6節)。ただし、新約聖書、特に聖霊が信者の慰め主として遣わされた後(ヨハネ14章16節)ほど、明確ではなく頻度も多くありません。聖霊は旧約聖書では新約聖書よりも「裏方」的な働きをすることが多いかもしれませんが、それは聖霊が三位一体の他の二つの位格と区別しにくいからではありません。聖霊については、このシリーズの第5部「 pneumatology」で別途検討します。
<12>に続く