Ⅱ. 神の位格:三位一体<7>

Ⅱ. 神の位格:三位一体<7>

神についての研究

https://ichthys.com/1Theo.htm#II.%20The%20Persons%20of%20God:%20The%20Trinity

ロバート・D・ルギンビル博士著

  1. 聖書における三位一体<c> 

3. 神の計画における三位一体の役割:  三位一体の本質を理解するために聖書以外の図解を用いるよりも価値あるアプローチは、聖書に記述されている三位一体の機能を検証することです。 聖書には、神が人間の歴史の中でどのように働かれるのか、また、今回のテーマでは、三位一体の各位格がその働きの中でどのような役割を果たすのか、つまり「神の計画」として知られていることについて、多くのことが書かれています。

a) はじめに: 神は人間の歴史の中で、その場しのぎや反応的に働かれるのではなく、創造の瞬間から「すべてのことを共に働かせて益とされる」(ローマ8章28節)のです。 神のご計画については、本シリーズの第2部B(終末論)において、それ自体のテーマとして論じられますが、この時点で、三位一体の各位格がそのご計画を実行する際に果たした独自の役割について考察することは有益であり、そうすることによって、三位一体の真の性質について聖書的洞察を得ることができます。

b) 三位一体の名前: 三位一体について多くを理解するためには、三位一体がどのような名前を持っているかを考察する必要があります。三位一体は総称して自分たちを神と呼びます。旧約聖書では、ヘブル語で神を意味する「エロヒーム」(新約聖書では、ギリシヤ語で神を意味する一般的な単語「セオス」に翻訳されています)は、厳密には、もともと「力ある者」を意味する単語の複数形です。したがって、三位一体は複数形にすることで、さらなる威厳を表しています。 しかし、旧約聖書における三位一体の各位格は、個々では、ヘブル語のヤーウェ(新約聖書では、ギリシヤ語で主を意味する一般的な単語であるキリオス)と訳されています。 これは、主の時を超えたダイナミックな存在に特別な注意を促す言葉であることが分かっています(上記セクションI、脚注1を参照)。神と主というこの二つの名前は、それぞれ、三位一体の一体性(「エロヒーム」は複数形で、三位一体を総称して指します)と、三位一体の個々の位格の共同神性(「ヤーウェ」は単数形ですが、三位一体のどの位格も個別に指すことができます)を強調しています。

イエス・キリストの出現と降臨に続く新約聖書における三位一体の完全な啓示によって(旧約聖書における三位一体については後述の第II部Cを参照)、父、子、聖霊という名前は、三位一体の役割(したがって、三位一体そのもの)をさらに明確に理解させてくれます。

1) 父(三位一体の第一位格):

 – 起源:  新約聖書でよく知られている神の父性という言葉や考え方は、モーセ五書以降の旧約聖書にも見られます。父という言葉は申命記32章6節で初めて神に使われています:  「主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか」。その後、同じ章の18節で、神は「あなたがたを生んだ岩」と呼ばれています。 神の父性についての概念は出エジプト記4章22節にも記されており、イスラエルは神の「長子」と呼ばれています。

– 意義: 「父」という名称の使用は、明らかに、比喩として受け取られることを意図したものです。私たちを産んだ父親のように、主は私たちの創造者です。 父親のように、主は私たちの権威者であり、訓練者であり、しつけ者であり、教師です(ヘブル12章5-11節)。そして、忘れてはならないのは、神は私たちを気遣い、深く愛し、私たちを守り、安全を確保し、私たちにとって本当に最善のものを望んでおられる方であるということです(私たちが最善と考えるものに関わらず)。人間である私たちの地上の父親には長所も短所もあり、最善を尽くそうとするものの、私たちにとって何が最善であるかについての不完全な情報を基に行動せざるを得ませんでした。しかし、天のお父様は父親としての理想を完璧に体現されています。常に完全な愛をもって私たちに接し、私たちにしてくださることはすべて、疑いなく私たちの究極的な幸福のためです。私たちを叱るにしても、祝福するにしても、それは私たちの存在や心の中にあるものすべてを完全に理解した上でのことなのです。

– 位格(人の「人格」に相当):父なる神は、三位一体の第一位格(すなわち、権威ある「わたし」)としてしばしば言及されます。なぜなら、神は「わたしは」として私たちに語りかけ、私たちの神、創造主、宇宙の支配者として、権威ある意志を直接的に示されるからです(例:出エジプト3章14-15節; イザヤ46章9-10節)。           

2) 御子(三位一体の第二位格):

– 起源:  聖なる天使たち(ヨブ記38章7節)もそうであるように、私たち信者は皆、神の「子」です(ローマ8章14節; ガラテヤ3章26節, 4章5節; 参照.ヨハネ1章12節; 第一ヨハネ3章1-2節)。この広範にわたる子としての概念は、父なる神がその従順な被造物すべてに対して持つ父親としての立場に基づいていますが、「神の御子(私たちの主、イエス・キリスト)」はただおひとりです。キリストの受肉は、ベールに包まれた形で、儀式と犠牲によって預言され、予示されていましたが、旧約聖書の時代には、キリストが実際に初降臨されるまで、大きな謎のままでした。今では、神の御子の原型が私たちの主イエス・キリストであること、そして旧約聖書の類似はこの方の出現を待ち望む予型であったことが明らかにされています:例えば、アダムは神の子(ルカ3章38節)-キリストは卓越した「最後のアダム」そのものです(第一コリント15章45節;また、ダニエル7章13-14節や新約聖書でも用いられている「人の子[すなわち、’adam]」)であり、イスラエルは神の僕(イザヤ42章18節-)です。-キリストは世の罪を取り除く唯一の苦難の僕(イザヤ42章1節; 52章13節 – 53章12節)であり、イスラエルは神の子-キリストはその子です(ホセア11章1節マタイ2章15節で成就)。最後に、ソロモンはダビデの直系の子孫ですが、キリストはその究極の子孫であり、救世主であり、神の子でもあるダビデの子メシアです(詩篇2篇7-12節; 110篇1節)。

– 意義: 上述した父性の概念に基づき、息子であることは、父との特別で壊れることのない関係、父の意志に従順に従う関係、また特別な特権、継承、権威の共有の関係を表します。 息子(特に王の息子)は、しばしば父よりも身近な存在です。王と罪を犯した従者たちとの仲介者の役割は、父である王と被造物である従者たち、両者と同等である者だけが果たすことができます:そのような和解の使命に遣わされることができるのは(受肉した)御子だけです(マタイ21章33-40節参照)。

– 位格:御子は、私たちの父なる神に代わって私たちと関係を築くために肉体で現れ(例えば、ヨハネ15章14-15節)、私たちに代わって父なる神に近づくことができるようになられた(ヨハネ14章6節; エペソ2章18節, 3章12節)ため、私たちは御子を二人称(すなわち、親しみやすい「あなた」)で呼ぶことが多いのです。

<三位一体-8>に続く

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