神の位格:三位一体<1>
神についての研究
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. 神の位格: 三位一体<i>
- 三位一体の定義 神は本質において一つ、位格において三つ
<位格:人について「人格」に当たる言葉>
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。
昔いまし、今いまし、
やがてきたるべき者」。
(黙示録4章8節)
聖書には、神の三位一体を表す特定の用語はありません。 新約聖書の霊感を受けた執筆者たちは、三位一体と呼ばれる教義、すなわち、三つの異なる位格を持つ唯一の神の存在は比較的単純な概念であり、(聖句をざっと読んだだけでも)上に引用したような箇所から十分に理解できると考えていました[1]。使徒教父たち、すなわち新約聖書を実際に執筆した人々の後に続いた世代も、聖句を引用するだけで、父、子、聖霊の関係を論じるのに十分であると感じていました。「三位一体」という用語自体が一般的に使用されるようになったのは、2世紀後半から3世紀初頭になってからでした。(神の唯一の三位一体の性質を否定しようとするさまざまな異端に対して)キリスト教の初期の世代が、聖書を読み解く常識的なアプローチに基づいて当然のこととしていたものを擁護する方法としてです。父なる神、主イエス・キリスト、聖霊はすべて神であり、同時に、私たちが「位格」と呼ぶような形で、互いに異なる存在であるということです。 神は一つ。 神は三つでもあります。 そして、これらの記述の間に矛盾はありません。
三位一体の最も単純で、最も良く、最も伝統的な定義は、神は本質において一つであり、位格において三つであるということです。 この教義を完全な言葉で言えば、父は神であり、子は神であり、聖霊は神であり、同時に父は子でも聖霊でもなく、子は父でも聖霊でもなく、聖霊は父でも子でもないということです。
三位一体とは何であるかをよりよく理解するためには、まず、三位一体が上記の定義(「本質において一つであり、人格において三つである」)に照らして、三位一体とは何でないかを考える必要があります:
1. 神は本質において一つですが、それは三位一体の一つだけが神であるという意味ではありません: 神は三位一体であり、三位一体のすべての位格(父、子、聖霊)は神です。 三位一体のメンバーの神性に異議を唱えた過去の異端には、養子論(キリストは養子という意味においてのみ神の子であると主張する)、エビオン派の異端(キリストは神の霊によって力を与えられた人間的性質しか持たなかったと教える)、ユニテリアン主義(神の一位格性を主張し、キリストと聖霊の神性を否定する)などがあります。 しかし聖書は、三位一体の三者が神であると教えています(イザヤ63章9-14節; マタイ3章16-17節, 28章19節; ヨハネ14章16-17節; 第一コリント12章4-6節; 第二コリント13章14節; エペソ4章4-6節; 第一ペテロ1章1-2節; 黙示録1章4-6節):
a) 父は神です(マタイ6章9節; 第一コリント8章6節; エペソ3章14-15節):
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。 (黙示録 1章8節)
b) 御子は神です(ヨハネ5章18節, 10章30節, 10章33節; ローマ9章5節; 第一コリント8章6節; コロサイ2章9節; ヘブル1章3節):
初めに言があった。言は[創造の前から]神[父]と共にあった。言は神[そのもの]であった。 この言は初めに神[父]と共にあった。[2](ヨハネ1章1-2節)
c) 聖霊は神です(創世記1章2節; 詩篇139篇7節; 使徒行伝5章3-4節; 第一コリント12章11節; また、主が語っておられるヘブル3章7-11節と詩篇95篇7-11節を比較してください):
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 (第二コリント3章17節)
[1] 旧約聖書で明らかにされている三位一体については、下記セクションII C.を参照してください。
[2] ヨハネによる福音書第1章1-2節の第1節において、「言は神であった」という句は、「言はa(単数)の神であった」と正当に翻訳することはできません。第一に、この節の冒頭で、使徒ヨハネは父なる神を指すのに、ギリシャ語のtheos(θεός)という定冠詞を付けた表現(「[sc.父]なる神」)を使用しており、慣例に従っています。そのため、同じ組み合わせを「ことば」を指すのに再び使用すると、混乱を招く可能性があります。「ことば」が「[sc.父]なる神」と本当に同一であるかのように思われる可能性があり、これはヨハネがここで否定しようとしている点のひとつです。第二に、ギリシャ語には不定冠詞(「a/an」)はありませんが、不定代名詞のtis(τις)は「ある特定のもの」を意味します。もしキリストが何らかの形で神であるが、実際には「神」ではないという主張であるならば、ギリシャ語の読者はまさにこの単語を期待するでしょう。ですから、ヨハネがこの単語を表現する方法は三つしかありませんでした。1)言は「唯一の神」であった(しかし、これは父とキリストの間に実質的な区別がないことを意味します)。2)言は「特定の神」であった(しかし、これはキリストが父のレベルの神ではなく、より劣った神<多数の神々の中の一つの神a certain god>であることを意味します)。または3)言は「神」であった(これはヨハネが実際に記したものであり、父とは異なる神性を言に完全に、かつ明確に帰属させるものです)。
<三位一体-2>に続く