神は愚かな者を使われる

神は愚かな者を使われる (2013年2月 ひとしずく1093)

 シベリアの僻地にクリスチャンの集まりができて、そこでは福音のメッセージの書かれたポスターが読み上げられていたという話を聞きました。 旧ソ連が崩壊した後に、外国から福音を携えてポスターを配りに来た人から、それを受け取りイエス様のことを聞いた一人のロシア人が、そのポス ターを使ってシベリアの僻地の村で伝えたのだそうです。

素晴らしいことです。福音は、あるところでは踏みにじられても、あるところでは、こ のように喜びと感激の涙をもたらします。福音は、神様が自分を愛していて、イエス様を信じるなら罪が許され天国に行けるという単純なメッセー ジですが、どうしてそれが人の心をこんなにも動かすことがあるかというと、それは神様ご自身が、そのメッセージの背後にいて、聖霊が、その正 しいことを示して下さるからではないでしょうか。


  誰かが福音を告げ知らせることによって、神様を知らなかった人々が神様と出会い、信じ、新しい人生を喜びと愛と希望をもって送ることができるようになると は何と素晴らしいことかと思います。それも死んだ後には天国に行くことができることを知って、死の恐れを抱かずに生きて行くことができるので す。

 こん な素晴らしい真理を知っている人々は幸いです。しかし、その真理を知った者は、それと同時に、さらにまだ真理を知らない人々に告げ知らせてい くという使命をもったことになるのだと思います。

上述の ロシアでの話は、「福音を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」と聖書で言われていることに対して、忠実であった人の実を見せてもらえるも のです。しかし自分も同じ福音のメッセージを伝えるとなると、そのための労苦と困難に目が行きます。

でも・・・自分の話は説得力に欠けているし、口下手なので…。それに人が喜んで受け 入れてくれるならまだしも、受け入れられず、嘲笑われ、変な人に思われるかも知れない…、そんな代価をかけるなど愚か者のように思えるかもし れません。

し かし、神様ご自身が、完璧な天の住まいを離れて人として生まれ、神様を愛することも従うこともしない人間達の罪のために死ぬという「愚かなこと」をやって のけられたことを忘れてはならないと思います。そして神は、その福音のメッセージを伝えるために、愚かな人たちを選ばれ愚かな方法を使われた のです。それは今も変わらないと思います。

だから自分がどんなに愚かに思えても、心配には及びません。神がきっと上手く用いて 下さるはずです。

ある人が言いました。「将棋で勝てるのは、駒が高級品で立派だからではなく、その駒 を動かす指し手が優れているからだ。」と。その指し手が神様ならどうで しょう?駒である私たちがどんなにみすぼらしくボロボロであり何の知識も持っていなかったとしても、勝負には全く関係ないのではないでしょう か。逆に私たちがどんなに立派な駒になったとしても、神様の手によって動かされないのなら、どうにもならないのです。

だから私たちは立派でなくても良いのです。知識がなくても、流暢に話せなくても、一 向に構いません。ただ、福音のシンプルなメッセージを伝えるだけで、または神様が自分にして下さったこと、神様を信じるようになって自分がど う変わったかについて話すことでも良いと思います。それを口下手に話したとしても、聖霊が、聞いた相手の心や人生に思いもよらない方法で働き かけて下さることでしょう。

以下は、他の人たちも福音に与ることができるように、人の賢さを捨てて、神様の愚か さを身につけて生きた人、パウロの言葉です。

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力 である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。
 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。
神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を 救うこととされたのである。
 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユ ダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たる キリストなの である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の 高い者も多くはいない。
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力 な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間で も、神のみまえに誇ることがないためである。
 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとにな られたのである。
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」(第一コリント1:18-31)

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