行いによって?

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2023年11月7日

11月7日 行いによって? (しずく643)

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21

 この聖句を、最近の「ひとしずく639-堅固な岩に、頑丈な家を建てる」に引用しましたが、「こ の節を読むと、ある人は『神の御心を行っていないから、やはり罪人の私は死んだ後は天国に行けないだ。救われてな い』と思ってしまうことがあります…この節を読むと他の救いのヨハネ3:16とかについて、やっぱり違うん だ、とか確信を失う人が(います)」というコメントを書いてくれた人がいました。
 きっとこのコメントを送ってくれた人は、ヨハネ3:16には、「…御子を信じる者が永遠の命を得るためである」とあるので、「信じて救 われる」と一方で言いながら、片方では、行いを強調しているようで、人々に混乱を与えるという懸念を言ってくれたのだと思います。

 最初に掲げた聖句「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の 御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)を読むと、やはり「行う者だけ」が天国に入るのだと記されているので、こ れは矛盾しているように思う人もいることでしょう。
 しかし、この箇所とまた箇所の前のところからの流れを読むと、イエス様は「にせ預言者を警戒せよ…」(マタイ7:15)「…その実に よって彼らを見わける」(マタイ7:20)とあります。そして21節「わたしにむかって、『主よ、主よ』という者が、みな天国にはいるではな く…」と続いているのです。
 ですから、「主よ、主よ」とイエス様を信じてるいわゆるクリスチャンであっても、その教えが必ずしも正しいものではないことがあるというイエス 様からの注意、警告だと思います。
 そして当時の宗教学者、律法学者は、神を信じ、神に従って、神の御心を行っているように振る舞っていたものの、偽善の行為であることを指摘し て、イエス様は「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」 (マタイ5:20)と言っているのです。
 彼らは、たくさん神を敬うような行為をしていました。ささげ物をしていたでしょうし、いわゆる善行もしていたのです。しかし、それは、自分を良 く見られるためであり、神と人に対する清い愛から出たものではなかったのです。主は、律法を廃棄しに来たのではなく、それを成就するために来たと 言われて、「神の御こころを行う」ことを人々にさせるために来たのです。
 しかし律法学者がしていたことは、彼らが人を導く者であるのに、反対に神のみこころを行うことから人々を遠ざけていたのです。

 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬う が、その心はわたしから遠く離れている。
 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それで よいとして、
 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。(マルコ 7:6-13)

 「天の父の御心を行う者だけが(天国に)入る」(マタイ7:21)これは、イエス様ご自身の言葉です。では、「父の 御心」は何でしょうか?
どんな、わざ、どんな行いをすればいいのでしょうか?

 そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ6:28、29)

 だから、父である神の業、神の喜ばれる事をするには、何をしたらいいのか?ということについて、イエス様は、「神がつかわされた者を信じるこ と」つまり「自分(イエス)を信じること」と言われているのです。

 しかし、ここで覚えておきたいことは、本当に信じるなら、行いが伴うのです。律法学者やパリサイ人の問題は、彼らの「不信仰」に あったのです。「神がつかわされた者を信じること」はまずしていませんでした。イエス様は「わたしを見たものは、神を見たので ある」と言われましたが、神が地上に現れても、罪人に触れたり、安息日を破ったりすることはしないはずだという、彼らの勝手な人の考えに基づいた 不信仰が、イエス様を「神がつかわされた者」として信じることが出来なかったのです。

 しかし、本当にイエス様を「神がつかわされた者」として信じるなら、イエス様の言われたこと、行いも伴うことでしょう。愛の神が自分を救ってく れ、そして語りかけてくれ、私達に何を望んでいるかを親しく示された後でも、私達は名にもしていないということがあり得るでしょうか?本当に神か ら使わされた者としてイエス様を信じているなら、ただ「主よ、主よ」叫びながら、昨日と同じことをし続けることができるでしょうか? 自分のため に命を捧げて下さった方を信じていると言いながら、行いがそれに伴なわないということがあり得るでしょうか? 信じている者は、それを自然と行動 に現しますし、口にします。その態度と行いに、その人の信じているものは現れるのです。

 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(ヤコブ2:26)
 体があっても、霊魂がもう死に絶えているということがあります。何も行動に現れない信仰生活というのも、その信仰が死に絶えてしまっているとい う可能性があるということです。私達は、愛の神を信じています。この神は心砕かれた者を救おうとされているということを信じています。そして、こ の神が、私達にも同じことをするようにと嘆願しているのを私達は知っているのです。そして、この神は、私達の弱さも知っておられ、私達が一歩踏み 出すなら、助けてくださる神であることを、私達は信じているのです。

 もし、自分が御心を行っていないと思うところがあるなら、どうか「行う」のを後回しにしないでください。誰も完璧な人はいないとでしょう。今ま でどれだけ失敗しても、やろうとしてもできなかったとしても、今回もそうだとどうして言えるでしょう。

 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(マルコ10:27)

イエス様を信じて水の上に踏み出したペ テロは、途中で波を見て沈んでしまいましたが、イエス様が救い出して下さいました。彼は水の上に踏み出したことを後悔しなかったと思います。

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