イエス・キリストの生涯-9

イエス・キリストの生涯-9

聖書の基本4A

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

e.位格的結合とケノーシス<ii>

              1) キリストのケノーシスが必要であった理由:  完全な義であられる神は、人類の罪が適切に贖われない限り、神として罪を許すことができませんでした。 そして、完全な人間だけが罪の代価を支払うことができ、その支払いが神の完全な正義に受け入れられることができるのです。 イエスはその唯一無二の完全ないけにえ、「きずも、しみもない小羊」(第一ペテロ1章19節)であり、これは旧約聖書のいけにえを象徴するもので、傷のある動物は主の供え物として受け入れられませんでした(出エジプト29章1節; 申命記17章1節; マラキ1章6-14節など)。 この例えでは、傷のない動物の体は、イエスが私たちのために完全であり、完璧な身代わりであり、あらゆる点で私たちの罪の担い手となる資格があったという事実を表しています。 この完全性の側面は、私たち皆と違って、イエスには罪の性質がなく、また、私たち皆とは違って、イエスは個人的な罪を一度も犯されなかったという事実にあります(これについては後ほど詳しく述べます)。  しかし、主は肉体の完全性を保つことに加えて、人間の霊の完全性も示し、保つことが求められ、それには肉体的に誕生した瞬間からその死の瞬間まで、彼の自由意志を高潔に保つことが求められました。

リーダーシップの原則というものがあります。それは、指揮官は部下に対して、自分がその部下に代わって喜んでしたいと思っている以上のことを求めてはならない、というものです。この原則が、私たちの救いの 「隊長」である主イエス(ヘブル2章10節)ほど完璧に、また忠実に実行されたことはありません。主イエスは、私たちの想像をはるかに超える無私の犠牲の完璧な生涯を送っただけでなく、さらに驚くべきことに、私たちの罪深い失敗のすべてのために十字架上で死なれました。 しかし、ケノーシスがなければ、人間的な自由意志を持つ私たちの主が、彼が耐えなければならなかった極限的で正直想像を絶するような試練(彼はそのすべてを受け入れ、完璧な形で合格しました)に対面することは不可能だったでしょう。なぜなら、神性の助けがあれば、それらはまったくテストとはならなかったでしょう。また、ケノーシスがなければ、主が十字架上で死ぬことはまったく不可能でした。なぜなら、神は死ぬことができないので、主は肉体的に死ぬことができませんでした。そして、(神は罪と接触することができないため)神が罪と接触することなく、私たちの罪のために死ぬことはできないからです。要するに、ケノーシスがなければ、そもそも受肉の意味はほとんどなかったでしょう。私たちのための受け入れられる身代わりとなるためには、主は「単に」罪を犯さないようにする以上のことをしなければなりませんでした。主は、私たちと同じように、この世で人間として自由意志を行使しなければなりませんが、それを完全に完璧な方法で行う必要がありました。 そして、生涯を通してそうしてこられた主は、私たちのために十字架にかかり、私たちのために苦しみ、死ななければなりませんでしたが、すべては、同じ、純粋に人間的な自由意志からでした。 

ですから、この種の神学的な解説では、主の罪のない生涯に集中するのが一般的ですが、御父に求められたすべての実際の積極的行いを実行することによる、御父に対する完璧な日々の応答が、否定的な行いを 「単に」避けるよりもはるかに大きな努力を必要とするものであったことは間違いありません。これは紛れもなく、人間が夢にも思えないほどに難しい自由意思の行使についても言えることです。つまり、私たちのために十字架にかかられ、私たちのために死に至らんとされた主の従順な意志です。この犠牲は、イエスが一歩一歩引き受けることに同意しなければならなかったものであり、一歩一歩挑戦された決定であり、宇宙の歴史の中で他のどんな出来事とも比べることができない、比類なく祝福された不思議な出来事でした。 実際、(現在、私たちがこのことをどの程度理解しているかは別として)私たちの罪に対する神の裁きを私たちの主が自由意志で受け入れられたことは歴史であり、他のすべてが依存する礎となる出来事なのです。 簡単に言えば、私たちの主は、ある目的のために、すなわち、御父の救いの御計画を実行するために、真の人間性を帯びられたのです。その御計画の実行は、イエスが神のしもべとしてご自身へりくだることなしには不可能であったので、ケノーシス、すなわち、世界が創造される前から持っておられた栄光(ヨハネ10章30節)を失って、へりくだりながら生きる一時的な状態は、私たちが救われるために必要なことだったのです(イザヤ49章7節, 52章-53章; ルカ22章27節; 第二コリント8章9節; ピリピ2章5-11節)。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。 (マタイ20章28節)

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられた(すなわち、神であった)のに、あなたがたのために貧しくなられた(すなわち、人間的であり、ケノーシスの束縛を受けておられた)。それは、あなたがたが、彼の貧しさ(すなわち、私たち皆のために十字架上で謙遜に生き、死なれたこと)によって富む者になる(すなわち、永遠の命を得る)ためである。 (第二コリント8章9節)

律法が[罪深い人間の]肉により無力になっているためになし得なかった事(すなわち、罪の問題を解決すること)を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪の[償いの]ためにつかわし、肉において[すべての]罪を罰せられたのである。 (ローマ8章3節)

私たちの主が受肉され、ケノーシスという完全な屈辱の中でこの世を歩まれたことの重要な結果の一つは、人間であることがどのようなことであるか、この世で神の御心を行うために何が必要であるかを、主が個人的に経験されたことです。

(10)なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかた[父なる神]が、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君[わたしたちの主イエス・キリスト]を、苦難をとおして全うされたのは、彼[父なる神]にふさわしいことであったからである。(11)実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかた[父]から出ている。それゆえに主[キリスト]は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。(12)すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、(13)また、「わたしは、彼(すなわち父)により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子ら(すなわち、神によってキリストに与えられた信者たち:13節)とは」と言われた。(14)このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエス[キリスト]もまた同様に、それら[共通の要素]をそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、(15)死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。(16)確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫(すなわち、信じる人類)を助けられた。(17)そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司(すなわち、仲立ち)となって、民の罪をあがなう(すなわち、「おおう」)ために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。(18)主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 (ヘブル4章15節)

もちろん、イエスは御自身が神であり、御自分の人間性において、御父の御心を御自分の生涯のあらゆる点において完全に全うされました(例えば、イザヤ42章1節; ヨハネ10章30節)。 そして、彼が受けた「テスト」は、十字架の試練や私たちのための死に至るまで、私たちの想像を遥かに超える、あらゆる方法とレベルにおいて強烈なものであったことも決して忘れてはなりません(このような試練は、私たちが耐えるよう要求されることは決してありません)。 しかし、イエスは召されたすべてのことにおいて、御父のみこころに完璧に応えて、完璧にそれを行いました。イエスの地上での人生は私達が行うべきことの見本でもありました。つまり、個人的な計画や願望、弱さよりも、常に御父のみこころ、御父の計画を優先させるのです。もちろん、主が神性の助けなしに人間性から完全な人間的意志を行使して成し遂げられたことを、私たちが真似することはできませんが(私たちが理解することさえできない誘惑の領域です)、私たちはできる限り主を模倣することができますし、模倣すべきです。

<-10に続く>

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