Ⅱ. 神の位格:三位一体<5>
神についての研究
ロバート・D・ルギンビル博士著
B. 聖書における三位一体<a>
1. 序論:聖書における三位一体に関する記述を最も適切に解釈する定義は、上述の通り、すなわち、神は本質において一つであり、位格において三つであるということです。この伝統的な定義と、すぐ上で議論され文書化された四つの補足を組み合わせると、三位一体について聖書が述べていることがさらに明確になります:
a) 三位一体の三者はすべて神の位格。
b) 三位一体の三者はすべて唯一無二の存在。
c) 三位一体の三者はすべて、同格かつ永久の本質を持つ。
d) 三位一体の三者はすべて、同じ神の本質を共有している。
三位一体に関する正統派の主張に異議を唱える数多くの異端(上述)が生じていることからわかるように、この教義を聖書に則った適切な方法で表現することは難しいものです。これは、三位一体の定義が聖書に書かれた実際の記述から離れるほど、特に当てはまります(前述の通り、使徒や使徒教父たちにとっては、それらの記述で十分であったと考えられています)。ここで注目すべきは、「本質」と「位格」という用語でさえも、初代教会の神学者たちの中には議論の余地があると感じていた人たちがいたということです。 私たちは人間の本質(私たちは皆、同じ霊から切り出された者である)や人間の人格(私たちは皆、唯一無二の個人である)について語るかもしれませんが、神の本質は人間の本質とは異なり(一つには、三位一体の三者は同じ神の本質を共有している)、三位一体における位格は人間の人格のそれとは異なります(例えば、三位一体の神の完全な一致と目的は、永遠に変わることがなく、量的にも質的にも人間の経験を超越しています)。
ここでの教訓は、聖書を解説する際には常に危険な合理主義的思索は、新約聖書の登場によって初めて完全に啓示された教義である三位一体の場合には、なおさら避けなければならないということです。 この教義について神が選ばれたのは、注意深く段階的に明らかにすることでした。旧約聖書における三位一体については後述しますが(C.)、ここで付け加えておきたいのは、この教義が慎重に、段階的に明らかにされてきた理由の大部分は(それを理解する上での私たち人間の限界を超えて)、三位一体の性質に関する誤った考えが歴史的に私たちのキリスト教信仰の基礎全体に深刻な脅威を与えてきたというあまりにも明白な事実(上記の議論を参照)にあるのかもしれません。 パンの中にわずかなパン種<教えの中の小さな間違い>が入ってさえいれば、サタンは三位一体を「神々」の集まり(つまり異教と何ら変わりないもの)にしたり、あるいは「神」が3つの帽子をかぶっている(つまりキリストの受肉と犠牲の重要性と効力を完全に排除する)ように仕向けたりすることができます。
神は、誤った解釈を招くような情報や、有益であるよりも害を及ぼす可能性のある不正確な説明を与えることなく、愛に満ちた英知によって、私たちが最も知る必要のあることを知らせてくださっています。
<三位一体-6>に続く