Ⅱ. 神の位格:三位一体<10>

Ⅱ. 神の位格:三位一体<10>

神についての研究

https://ichthys.com/1Theo.htm#C.%20The%20Trinity%20in%20the%20Old%20Testament

ロバート・D・ルギンビル博士著

C.  旧約聖書における三位一体<1>

1. はじめに:三位一体は、旧約聖書の聖句の中に存在するだけでなく、(新約聖書の啓示の恩恵を受けて)はっきりと理解できる形で描かれています。神が「われわれのかたちに人を造ろう」(創世記1章26節)と仰せになった時、神の天使たちが三度「聖なる、聖なる、聖なる」と神を賛美した時 (イザヤ6章3節)、アロンの息子たちが「私の名を」イスラエル人に三重の祝福で「授けよ」と命じられた時(民数記6章24-26節)、その明確な意図は、神の三位一体の性質を(伝達しないまでも)反映することです。さらに、旧約聖書のある箇所では、三位一体がさらに鮮明に表現されています。例えば、ダビデ王の最後の言葉では、神を「主の霊」、「イスラエルの神」、「イスラエルの岩」と、続けて表現しています(サムエル下23章2-3節;キリストのかたちを「イスラエルの岩」として表現している第一コリント10章4節を参照)。旧約聖書における三位一体の実在、つまりベールのすぐ下にある現実を証明するためによく引用される箇所は他にもたくさんありますが(例えば、イザヤ書48章15-17節, 63章9-10節)、おそらく最も良い例は、主がご自身の神性が確かに聖書によって預言されていたことを証明するために用いられた箇所でしょう(ゼカリヤ2章7-13節参照):

パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。 すなわち

『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。 [詩篇110篇1節]

このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。 (マタイ22章41-46節)

私たちは、ダビデが神の啓示を受けてこの預言を記した際、彼が望んだように来たるべきキリストを明確に視たとは仮定すべきではありません。実際、キリストご自身から「多くの預言者や義人が、イエスの世代に直接示されたもの、すなわちメシヤの顕現を見たいと願った」と伝えられています(マタイ13章17節ルカ10章24節; 参照:ヨハネ8章56節第一ペテロ1章10-12節)。イエス・キリストが最初の降臨において世界に示された啓示は、上記の詩篇110篇1節(キリストは人間性においてはダビデの子であるが、神性においてはダビデの主である)のような箇所を説明することに加え、旧約聖書の多くの他の箇所を、現在私たちがより完全に理解している三位一体の教理を通じてのみ十分に理解できる基盤を、意図的に提供しています。

旧約聖書では、三位一体は三つの大きな山のように私たちの前に立ちはだかります。イエス・キリストの受肉と新約聖書によってもたらされた啓示によって初めて、私たちは旧約聖書に描かれていた三位一体の姿を遠近法から見ることができるようになり、この新たな視点から見たとき、三位一体の山がそれぞれに見えるようになるのです[1]

しかし、疑問は残ります。なぜ神は、旧約聖書の時代、ご自身の本質の三位一体の性質を覆い隠し、代わりに上記の方法でそれを予見させることをお選びになったのでしょうか?           

偶像崇拝は、古代の重大な問題であり、イスラエルの最も深刻な躓きの一つでした。この偶像崇拝は、現在の私たちの三位一体に関する知識がキリスト教以前時代に覆い隠されてきた理由としてよく挙げられます。確かに、偶像崇拝が旧約聖書の信者の信仰と実践に対する脅威であったことは事実です。十戒の最初の二つの戒めがこのテーマを扱っていること(出エジプト記20章1-6節)、またバラムの偶像崇拝を勧める助言が、いかなる呪いよりもイスラエルに破壊的な影響を与えたこと(民数記25章)を考えれば、それは明らかです。この議論は、したがって、この現実的な多神教の脅威に対抗するために、神の「唯一性」を強調する必要があったことを示唆しています。これにより、三位一体の正しい理解が歪められる可能性を排除しようとしていたというものです。この説明には多くの価値がありますが、しかし、問題を完全に解決するものではありません[2]

その完全な答えは、イエス・キリストのみ姿にあります。事実が明らかになる前、すなわち、キリストが肉体をまとってこの世に来られ、その謙遜さ、苦しみ、そして私たちのために払われた犠牲を、私たちの目で実際に見る前に、私たちは三位一体と、キリストの受肉と十字架上の死によって神が私たちのために成されたことを、本当に完全に理解することができるでしょうか?イエス様の受肉という成就した現実がなければ、その栄光を私たちはどのようにしてかすかにでも想像できるでしょうか?そして、イエス様の受肉という成就した事実がなければ、私たちはどのようにして神の三位一体の性質を理解し、感謝することができるでしょうか?キリストがこの世にお生まれになった後、キリストによってのみ、私たちは神をはっきりと見ることができるようになるのです(ヨハネ1章18節, 14章9節)。象徴的に私たちを神の臨在から隔てていた神殿のベールが、私たちに代わってキリストが犠牲になることによって二つに裂かれたように(マタイ27章51節)、旧約聖書においてキリストのみ姿を部分的に覆い隠していたベールは、キリストが実際に肉体をまとってこの世に来られ、私たちのために死なれたことによって取り除かれました。そのため、今、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、これまで以上に明確に、父なる神、御子、そして聖霊を認識することができるようになりました:

「暗闇から光を放て!」と言われた神は、イエス・キリストというお方における神の栄光について私たちの知識を照らすために、私たちの心に[ご自身の光]を放たれた方なのです。(イクシス訳:第二コリント4章6節)

今日に至るまで、旧約聖書が読まれても、[彼らの不信仰な心には]同じ覆いがかかったままです。そして、それはキリストにおいてのみ取り除かれるため、[彼らがこれらの聖句を聞いても、]それは取り除かれることはありません。(イクシス訳:第二コリント3章14節)

* 御子が世に来られて後、私たちは御子をよりはっきりと見ることができます(ヨハネ1章14節)。

* 御子がこの世に来られた後でなければ、御父をよりはっきりと現すことはできません(ヨハネ1章18節)。

* 御霊は、御子が栄光をお受けになった後でなければ、信者に宿るために遣わされることはできません(ヨハネ7章39節)。

ですから:

* 三位一体は、キリストの最初の降臨後に初めて明確に説明され、理解されるようになりました。この任務は新約聖書によって果たされました。

* 一方、旧約聖書では、最初の降臨以前、三位一体の各位格は、当然のことながら、新約聖書ほど明確に区別されていませんでした。  

<三位一体-11>に続く


[1] 旧約聖書における三位一体のこの表現は、一般に「預言の短縮遠近法」と呼ばれています。この現象の詳細については、「来たる艱難期」第 1 部.IV.1.a 「預言の短縮遠近法」を参照。

[2] 異教の神々(ましてや異教の宗教)は、神と神への真の礼拝とはあらゆる点で異なります。このことは、三位一体の啓示にもかかわらず、真の信者には明白であったはずです。二つの明らかな相違点を挙げれば、異教の神々は、三位一体のように「一つ」の目的を持つことは決してありません(ヨハネ10章30節;参照.第一コリント3章8節)。また、その個々のメンバーは、全体が存在するために不可欠な存在でもありません。

他の投稿もチェック

Ⅱ. 神の位格:三位一体<14>

Ⅱ. 神の位格:三位一体<14> 神についての研究 https://ichthys.com/1Theo.htm#C.%20The%20Trinity%20in%20the%20Old%20Testament ロバート・D・ルギンビル博士著 旧約聖書における三位一体<5> f) 旧約聖書におけるクリストファニーの事例 : 1) はじめに: ...

Ⅱ. 神の位格:三位一体<13>

Ⅱ. 神の位格:三位一体<13> 神についての研究 https://ichthys.com/1Theo.htm#C.%20The%20Trinity%20in%20the%20Old%20Testament ロバート・D・ルギンビル博士著 旧約聖書における三位一体<4> d) 御父の尊厳: サタンに率いられた天使の反逆が人間の創造に先立つという事実(ヨブ38章7節; イザヤ14章12-15節;...