イエス・キリストの生涯-11

イエス・キリストの生涯-11

聖書の基本4A

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

                3) ケノーシスと十字架:   私たちの主イエス・キリストは「罪人を救うために世に来られた」(第一テモテ1章15節)のであり、十字架上で私たちのために死んでくださることによって私たちを救うというこの包括的な目的は、御父の神のみこころに応答する御自身の人間的自由意志の唯一で最も重要な行為を構成しています。

(5)それだから、キリストがこの世にこられたとき(すなわち、お生まれになられたとき)、次のように言われた、「あなた(父)は、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。(6)あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。(7)その時(すなわち、御降誕の時)、わたし(神なるイエス・キリスト)は言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。(8)ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、(9)次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのもの[契約]を廃止されたのである。(10)この[自由な]御旨[私たちの罪のために死なれたイエスの行為]に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。(ヘブル10章5-10節)

私たちの主が最初の降臨の間に人間性からなされた一つ一つの決断は、父なる神に完璧に応えるものでしたが、私たちの代わりに十字架にかかり、私たちの罪のために死ぬという主の意志がなければ、私たちはまだ失われたままだったでしょう。 この決断の難しさと、その決断で私たちの主が担うことになった信じられないほどの重荷は、イエスのためというよりむしろ私たちのために発せられ、記録されたイエスの二つの言葉から知ることができます(この事実は、正統派キリスト教界でもしばしばあまり理解されていません)。 それは、1)裏切られた夜のゲッセマネの園での祈りと、2)息をひきとられた直前の詩篇22篇1節の引用です。

ゲッセマネで、イエスは「十字架の杯」が「御心ならば」取り去られるように祈りました(マタイ26章39節; マルコ14章35-36節; ルカ22章41-42節; ヨハネ12章27節)。 さて、主は御父のみこころが何であるかをよく知っておられ、主がこの世に来られたのは「まさにこの時と目的のため」であったのです(ヨハネ12章27節)。それゆえ、この祈りは、主の側に疑いや考え直しがあったことを示すものでは決してなく、完全に私たちのために祈られ、記録されたのです。

第二に、御自分の血によって、つまり十字架上で暗闇の中で私たちの罪を負うことによって、私たちの永遠の贖いを成し遂げられたとき、主は「わが神、わが神、なにゆえわたしをお捨てになったのですか」(詩篇22篇1節)と言われました。これは混乱や落胆を表す言葉ではありません!それは、私たちが永遠の命を得るために、人間である主がご自分の自由意志で、私たちの罪のために見捨てられ、闇の中で裁かれるために、自ら進んでご自分を捧げられたことを私たちが知るために、私たちの益のために御自分の人間の霊を諦められる直前に、詩篇22篇1節を引用されていたのです。私たちの主は、私たちが永遠の命を得るために、ご自分が愛に満ちた父から見捨てられ、裁かれなければならなかった理由をよく知っておられたからです。それは私たちが永遠の命を得るためです。

ですから、私たちの罪のために苦しみを受ける直前と直後の主のこの二つの発言は、誤解されがちですが、実際には、私たちに代わってご自身を犠牲にするという主の正しい行為を通して私たちが救われるために、イエスが御父と私たちの意志に完全に応えて、ご自身の純粋に人間的な自由意志でなさったことを、明確かつ意図的に宣言しているのです。

このことから、私たちの主の人間的自由意志は、私たちの自由意志とまったく同じであったことがわかります。 ここでのケノーシスの主題に即して言えば、イエスの人間性においての意志は、イエスの神性の意志と御父の意志と完全に一致していましたが、イエスは人間性において、その完全な生涯を通して、あらゆる段階でこのような完全な決断を下さなければならなかったのです。 御自身の人間性において、この完全に正しい決断は、しばしば「非の打ちどころのなさ」(「罪を犯すことができない」)と呼ばれます。 しかし、この言葉には二つの欠点があります:  1) はるかに重要な肯定的なこと(すなわち、どんなに困難であっても、一日一日、一刻一刻、必要なことをすべてやり続ける必要性–十字架にかかることの困難さに照らせば、罪を避けることは比べることはできません–)よりも、否定的なこと(すなわち、罪を犯さないこと)を強調していること、そして、2)私たちの主は、そうすることを選んだとしても、悪い決断を下すことはできなかったという誤解を招くような暗示: 私たちの主が成功されたのは、主が神であったので、決して疑いの余地がなかったことは確かですが、それにもかかわらず、主の人間的自由意志が私たちの自由意志と何ら異なっていたとか、その人間的自由意志からの良い一連の決断は極端に困難なものではなかったと示唆するのは間違いです。 実際、御自身の人間性があらゆる点で本物であったからこそ、御自身の苦しみも完全に本物であったのであり、私たちと同じように試練を受け、誘惑されたからこそ、私たちが今まさに通過している坩堝を実際に経験した者として(しかも罪もなく、十字架に至るまで、私たちの想像を超える程度で)、私たちに完全に共感することができるのです:

おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 (ピリピ2章8節)

(8b)「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。(9)ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを

見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。(10)なぜなら、[父なる神が、]万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。(ヘブル2章8節b-10節)

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 (ヘブル4章15節)

<-12に続く>

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