肉の思いと霊の思い 

j
2023年2月23日

「ひとしずく」ーーひと昔編

  肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。 (ローマ八章六節)
 
 肉の思いと、霊の思いは対立します。聖書には、肉の思いは「神に敵す る」とあります。
イエス様が地上に弟子たちとおられた時、絶えず弟子たちは、肉の思いによる言動をイエス様に戒められました。それでは、何が「肉の思い」であり、何が「霊の思い」であるのか、それについて聖書からいくつかの例を見ていきたいと思います。
 
  イエス様が弟子たちとエルサレムへ向って進んで行かれようとしていた時、サマリヤの民はイエス様を歓迎しようとはしませんでした。そのことで弟子のヤコブとヨハネとはこう言いました。

「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。(ルカ九章五三~五五節)
 
 救い主として来られて、救いを差し出しているのに、歓迎しないとは、無礼でけしからん!とばかり、簡単に人を裁き、攻撃しようとする弟子たちの態度とものの考え方をイエス様は戒められました。
 
ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」
   十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、 僕とならねばならない。」(マタイ二〇章二〇~二七節)
 
 十人の弟子たちは、二人の息子が偉い者となって、イエス様の隣に座する者となるようにという願いをしたその弟子の母親に、憤慨しました。それは恐らく、自分たちもそのような「偉い座」に就かせてもらいたいと思っていたからでしょう。しかしイエス様は、そんな弟子たちに、本当に偉い人になりたければ、権威を振るう人ではなく、全ての人に仕える者となるべきだ、と教えられました。
 
 イエスは彼ら(イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めたパリサイ人たち)をあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。
 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
  弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。
 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。
「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。
 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。(マルコ八章十三~二一節)
 
  イエス様は、弟子たちに「偽善的独善的で、自分は神に仕えていて義であると思い込んでいたパリサイ人の教えの「パイサイ人のパン種」と、権力と地位を保つために、妥協と偽り、そして人殺しを構わず行う考え方の「ヘロデのパン種」のどちらにも気をつけるようにと、弟子たちに言われたかったのだと思います。そのような彼らの邪悪な考え方は、ちょうどわずかのパン種が全体を膨らませるように、自分の全体のものの考え方に影響を与え、また周りの人たちにまで、影響を与えてしまうということを警告して おられたのだと思います。
 それなのに弟子たちは、食べ物を用意しておかなかったことをイエス様に咎められたのだと思ったのです。
  このように、イエス様に近く従っていた弟子たちでさえもが、簡単にこの世的な、反応をしていました。それは、この世の価値観でものごとを見、考えていたことの現れであり、私たちにもやはり、同じ事が言えるのだと思います。神様の御心よりも先に、生きるために必要な食物、着るもの、お金、健康、安定した生活、地位、名誉、など、 を求めてしまう私たちに、イエス様は、かつて弟子たちに語られた同じ言葉を言われているでしょう。
 
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ六章三三節)
 
 なぜ、主イエス様は、「神の国と神の義とを求める」ことを語られたのでしょう。それは、世の誘惑に従うことの中に真の幸せは存在しないこと、私たちを本当の溢れるばかりの幸せと喜びは、神の国と神の義を求めることの中に見出せることを、知っておられたからです。
 どうか、私たちが「肉の思い」と「霊の思い」について識別 できるように、そして、まず何よりも先に「神の国と神の義」とを求めることができるよう、そして聖霊の喜びの中に生きれるように、主が助けてくださいますように。
 
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ十二章二節)

他の投稿もチェック

ひとしずく1521-「有る」という方がいれば十分

ひとしずく1521-「有る」という方がいれば十分 この世では、人生の成功と幸福のためには、何としても肩書きや学歴が必要であると信じてい る人は少なくないようです。そして人々は、その肩書きや学歴を得るために、並々ならぬ努力と苦労とそれに伴う悩みを抱えねばならないので す。  この世で生きていくの は大変なことだな、と思いながら、私はモーセのことを思い浮かべていました。モーセはエジプトの王になるべき人でしたが、その栄光の冠、 肩書きが神によって削ぎ落とされることによって、神様に使われた人ではなかったかと思います。...

ひとしずく1508―別世界へ飛び込む

ひとしずく1508―別世界へ飛び込む (このお話は2014年に書かれたものであることをお伝えします。) 私たちは、自宅から車で一時間ほど行った町に、ひと月に一度かニ度買い物に出かけるのですが、私たちの場所から十キロメートルも車を走らせると、そこはもう雪が全く見当たらない別世界となります。昨日も、母を病院の定期検診と買い物に連れて行ったのですが、いかに自分たちの所が他に比べると雪が多い地域かということがわかります。...

ひとしずく1515-神の見解 

ひとしずく1515-神の見解  神と私たち人間との見解は異なります。私たちはそのことを踏まえて、もっと自分の考えにとらわれず神様の見解を求める必要があると思います。改めて聖書が示す神の見解を心に刻む事ができますように。 主はサムエルに言われた、「顔形や、身のたけを見てはならない…わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔形を見、主は心を見る」(サムエル記上16:7) イエスは答えて言われた、「天地の主なる父よ、あなたに感謝します。これらのことを知恵のある者や、賢い者に隠して幼な子に現してくださったからです。」(マタイ11:25)...